こんばんは、人都です。
マギレコのフランス暴力とんちきイベントが始まりましたね。
私は書類を作って授業を受けて資格勉強をして、まあ一日外に出られませんでした。
出来れば毎日散歩には行きたいのですが、どうしても天候が悪かったり何となく外に出たときに洗濯物とかの事を考えるとゆっくり歩く気にもなれずに。
朝はパン、昼は卵かけご飯に夜は中華炒めを食べました。
悩み事は味でごまかせるのですが、この手段に頼りすぎると太ります。
大学受験してた時はすべてのストレスを食欲にぶつけて大変なことになり、春休みはダイエットに追われました。
最近はもっぱらVRoidのテクスチャばかりを増産している私ですが、ついに新人Vtuberさんの膝の母になるという実績を解除しました。
はしゃぎ過ぎですが実際とても嬉しい。
ここ最近は良くも悪くも就職活動でいろいろな意味で多方面から祈りを受けていて自尊心がずったずたなので、自分が作ったもので喜んでもらえる事ってサハラ砂漠で出会った富士の天然水なんですよ。
専攻の関係上、自然資産を貨幣評価する方法とその是非のような経済の勉強を最近よく行うのですが、そういうことをしているとどれだけお金を好んでいても評価できない不定形の将来性が入ってくることが多くて、そういうのって例えばやりがいであったり感謝のようなものもそこに入ってくるのではないかと私は推測しています。
基本的にやりがいや感謝というものを本気で説明会で語る企業は私は苦手としています。
他にも奇跡とか幸福とか言われるとうわって思います。
企業とかそういった団体が不定形の物を第一に語っていると体育会系が過ぎるというか、同じ思想をこちらにも求めてきそうで怖いのですよね。
そういう不定形の概念というのは、一人ぼっちでこそ抱くべき感情ではないかと思うんですよ。
やりがいというのは言いなおせば達成感のようなもので、感謝というのは与えられたときにはじめて発生する心理で。
当然いくらコミュニケーション難の私でも同じ班のメンバーと一緒に何か一つのプロジェクトを行なった経験も、それが結果的に良いものだったとも思ったこともあります。
でもやっぱりその時の感情はどちらかといえばやりがいというよりも解放感というか、もう納期や批評コメントにやきもきしなくていいという終わったー!という気持ちが一番で、そのさわやかさを追って少し一人で落ち着いた後に感慨のような形で訪れるのが私にとっての生きがいとかやりがいのようなもので。
形にできないからこそ、この感情に気づいて何らかの形で抽出していい方に利益化しようとすると精神的な問題が出てきて歪んでしまう。
でも孤独にかみしめる感謝ややりがいって絶対自分の未来を繋げてくれるんですよ。
私はそう思います。
連日時間が無い。
おやすみなさい。
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