2021年4月12日月曜日

2021/4/12

 
こんばんは、人都です。
いつもは書き出しをパソコンで、見直しをスマホで行なっているのですが今日は珍しく電車の中で冒頭部分を書いています。
私は今日から大学で対面授業が始まり、その行き帰りにはミラクルニキのレアパーツ周回を回したりしていました。
家に帰ったらノータイムで会社のオンライン説明会に出る予定なので、快速の電車が最寄りに着き次第めちゃくちゃ急がなくてはなりません。
でも朝方の生活は何というか、健全な気がして精神に良いですね。
そしてスパチキはすべてを解決します。

今回履修で取った授業は別に必修と言うわけではなく、大学での卒業を確実にさせるためのある種予防線のような講義です。そもそも私の専攻分野はたまにめちゃくちゃ厳格な怒鳴る教授ガチャを引き当てなければ、温和な変人講師ばかりで単純に話を聞くのが面白い。

それが就職的に役に立つのかと聞かれればしらばっくれるような学問を専攻しているので、私の知らない話をしてくれる人は例え課題が若干厳しくても初見のyoutuberよりかはずっとすべらない話です。
それで今日ひさしぶりに対面した教授のエピソードトークの中で話題とされたのが「文通」というものでした。

私が他人と繋がりを持ちたいと思った頃は、ちょうどまだ箱のような鈍足パソコンが家にあってそれを使ってニッチなTCGとか特撮好きの集まるブログにコメントを残したり、ニコニコにコメントを打ったり、ポケモンガーデンを歩いたりと絶妙にキツい形の交流を小学生がしていた気がしますが、まぁギリギリインターネットの中にコミュニティがあったわけです。
当時、文通というものは多分まだ実在はしていた気はしますがメジャーからは既に一線を退いた手段のようでした。
アニメや幼めのファッション雑誌の読者投稿欄には確かにペンフレンド募集枠として自分の趣味や家族構成と共に住所を掲載する文化が許されていたように思えます。
今思えば、日本国民の誰もが簡単に手に取れる流通書籍という形で自分(含め身内)の最重要格である情報を垂れ流すというのはひどく恐ろしい話です。
自分からプライバシーを破壊しかけている。
私がすこしわるい人間なら、古めかしい雑誌を本棚から取り出してかわいいペンネームの中学生もGooglemapで辿ることもできました。
同人の自宅通販をしていた人は、受け攻めが反転したカップリングの過激派に刺されることはなかったのかな。
なんなら普通に犯罪とか、変な趣向の人たちにストーキングとかされなかったんでしょうか。

まあインターネットが無かったからこそ、発達した形ではあったのでしょう。
住所という強情報が手元にあったところで、普通の人にできることは多分その時代には配送物を出すぐらいで、せいぜい遠くに住む書面でしか知り得ないミステリアスな友達に想いを馳せるぐらいな平穏なものだったのかもしれません。
まぁ、今のやみやみな女の子の欲しいものリストにありがちなやつのように、スケベグッズや危険な写真を送りつけるような迷惑行為もやろうと思えば出来たと思いますけど。

社会として、世界としてただの情報がまだ人が認識するものでしかなくて全てが繋がりきっていなかった時代のことは現代子のわたしにはほとんどファンタジーなのですが、それでも自分が一切合切出会うことの出来ないような人物の存在を感じることができるというのはそこはかとないロマンがあります。
ところで青い鳥文庫から出版されている「まぼろしのペンフレンド」というSF小説を読んだことはありますか。

青い鳥文庫は多くのオタクのステップアップを支えたものだと私は信じてやまないのですが、その中でも際立って当時としては表紙がアニメチックなその小説は私に大きな衝撃を与えました。
この手紙はどこから届いて、ぼくの返事はどこに届いていたのだろう?
いくら古い作品でも、SF作品のネタばらしなんて無粋なことはできません。
短さは子供向けのそれですから、是非機会があれば読んで欲しいなと思います。
アンドロイドやロボットとか、自己同一性みたいな話が好きならきっと面白い話なはずです。
今は情報の証明、というかソース出しみたいな事はきっと簡単でしょうし子供でも何か疑問に思えば大抵のことは電子端末で解決が出来ます。
だけれどもペンフレンドというやつはポストのような底のしれない空洞に手紙を落として、気がつくと帰ってきているようなもので、ミステリアスであると同時にどうも実在感がない。
未だに私はポストに手紙を落とすたびに、少し不安になるぐらいには取り戻しのつかない郵便というものに不思議を持っています。
それらはSNSで一方通行なアカウント達も同じじゃないかと言われると、そこにはリアルタイム性の有無という大きな隔たりがあると思うのです。

もしかしたら、その手紙はどこかでぷつりと返って来なくなってしまうかもしれません。
そんな時どんな気持ちで当時の少年少女たちは手紙と会うことのない遠方に切実な想いを馳せていたのかはきっとデジタルな私にはわかりようもないのでしょうが、勝手だけれど少し儚くて綺麗なものにも思えます。

きっと今とんでもない技術でもあればそんな擬似文通みたいなわざと不親切で情報量の無いネットサービスも作れたりもしくは実在しているのかもしれませんが、今の世界にインターネットはもう流行っていて、多分人の情報も洗うことがとても簡単なので実際のアナログな文通的なロマンはいくばくか欠けてしまいそうです。
相手に対して知る余地が本当に直筆の紙の上にしかないような、あやふやな感覚と関係に憧れがあります。

というのもまぁ、今年は年賀状を実は一枚も直筆で書くことなく過ごしたのですよね。
過去には送り合ったこともありましたが、今ではもういい歳だし日付が変わった瞬間にことよろするぐらいが丁度いいような示し合わせもあって。
情報と時間とそこから生まれる実在性、もっと私の頭の回転と引き出しが多ければこの関係性を使って何か創作に活かす事が出来そうですが、私には少し持て余すのでここに書き残しておきます。
なにが言いたいかというと、どこかの本郷令子にずっと夢を見続けています。

ブログには閲覧者の数のみを追いかける機能が付いていて、私は誰がこの文を読んでいるのかなどほとんど知りませんが誰かが悪趣味なF5でもしない限りは、誰かはこの文を読んでいるということを知っています。
もしかしたら文通の憧れる要素の一つである絶対に知ることの出来ない不介入の匿名性はある種、達成できているのかもしれません。
それじゃあおやすみなさい、多分一生会えない閲覧者さん。

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