こんちは人都です。
私はソーシャルゲームのアプリを人より多めにインストールしています。それは「でみめん」との別れを経験したのちに、知ることの出来ないまま世界から消えてく誰かの推しをフラットに観測したくなったことが理由の一つで、悪くいってしまえば冷やかしでした。
ソーシャルゲームに限らず、キャラクタービジネスはインターネットに大量にあふれていて今日も飽和して消えていく者も多いでしょう。
TLにさらりと流れて行ったあの子にも、あの子でなければならないと花束をささげる人がいて場所によってはふざけるなと親指を空中に沈める人がいます。
感情は暴力でもありますが、暴力は体力と精神力を浪費します。
魔法少女まどか☆マギカではこのいわゆる希望と絶望の相転移、「感情エネルギー」こそが無尽蔵の熱源になり得ると解釈をされ、インキュベーターの真の目的として扱われていましたがまどかオタクを抜きにしてもこの考え方というのは案外的を得ているのではないかと思うのです。
感情は無からは生まれず、ほとんどの場合は自己とそれ以外の何らかの関わり合いによってぽろりと出現します。
この考え方から結ぶなら自らを感情が薄いと体感する人は、人もの問わず多くに触れずに大切に育てられてきたのでその分心の動きを経験しなかったことになり、感情と勘以外の生活動力が著しく欠けているぐらいに極端な私は、どうしようもなくミーハーかつインターネットの暴食によってすべての情緒回路が富士急ハイランド産ジェットコースターになってしまいました。
感情が多すぎるとこんな風に文を打っている間は良いのですが、社会での生活をする上では何度も「何?こいつ」という視線を向けられることになりますし何よりそれらの突然発生する感情衝動を二十歳を過ぎてもまだ制御できていません。
こんな人間がコンテンツに感情を向けると、ひどいことになります。
口で発するよりも流暢に感情を出力できる機械を手にすると、コンテンツの新しい供給を受け取った時に感情を全て脳の思うままにインターネットに垂れ流してしまいます。
この文章自体もほとんど言い訳なのかもしれません、ただはっきりと言えるのはあの140字らは他人の目を引くためのダンスでも縁起でも悲劇のヒロインごっこでもなく本当にどうしようもない肛門の神経が弛緩した老人のような吐露で、私自身も治さなければと思いつつその行先がどこにもなくなった暴力です。
ですけれど、Twitterに流すという事は便所の個室には不適当でその下水に流れていく感情を誰かが見て胃酸を口に含むかもしれません、ここはそれを止めるための便座でもある。
私がうっかり珍しくリアルタイム進行のアニメにハマり、それをテレビの前で観測してしまった時はもう本当にどうしようもなくなり、便座で数時間近く140字×nの感情と共に過ごすことになります。
それが分かっているのでリアルタイムのコンテンツにハマるのは恐ろしいのです、観測しないわけではありません、ただ時期をずらして作業をしながら履修して感情をわざと向けないようにおそるおそる観測しています。
私みたいなどうしようもない人間がリアルタイムで肥溜めから絵を描くような真似は、もうできれば、したくはない。
だからどこにもいないリヴァイアサンくんの記憶を語るのも本当にやめるべきです。
シナリオも設定もろくに明かされないままの悲しみも、広いコンテンツの海ではままよくある事のはずなのです。
世界の中で本当の限界を抜かしてしまうなら「自分だけの苦しみ」なんてものはなく日本どころか世界で、誰かが毎秒苦しんでいるでしょうし、意地の悪い絵本ならお前がラーメンを食っているときに遠い国で子供が死んだというでしょう。
自分の所属ジャンルをマイナーと呼ぶオタクは仲間に嫌われますし、どうしようもない劣等感をまき散らしたところでそんな事みんな分かって生きてるからとっとと失せと誰もが思っています。
だけれどもそれらのもっともな止めるべき理由を全て追い越してどうしても吐き出したくなってしまう感情は、こんなコンテンツの海の中でいつか自分が好きだった何かを自分以外が知らなくなってしまうのではないかという恐怖です。
良くも悪くも古いインターネットでは根気よく探せば個人サイトが見つかったり、有志の古臭くも暖かさのある半文字化けサイトがあったりしてその大昔のジャンルのリアルタイムの感情や感想を追体験させてくれます。
たしかに今様々なブログサービスは消え失せ始めていて失われている文献も多いでしょう、しかし今の2020年栄枯盛衰のキャラクターたちの多くはかつてほどの留める文献を持ち合わせていないかと思ってしまいませんか。
Twitterでしゃべるからええやんと思われる方もいるでしょうし、黒歴史になるだろという意見も大筋では同意しますが、Twitterはアカウントを消せばいくつもの感情は塵と消えますし、残ってもいない黒歴史はそもそも歴史の存在をその目に教えてはくれません。
私だってそんなに美しい言葉を紡げる技術を持ち合わせているとは思いませんし、曲がりなりにもSCP財団のコミュニティをかじっている中で特技が文字書きなんて口をY字開脚させても言えません。
それでも完成しない50ページ弱のネームより一枚のらくがき、一瞬の操作で消えてしまう言葉よりもホームページに綴られた汚い生き恥がオリジナルの創作や感情を残しておくのには適していると思います。
いつまでも覚えている、いつまでも好きでいるなんて言っても人生は100年の時代でこの世には誘惑と鬱がまみれています。
チャンネルもTwitterも消してしまったコンテンツはまだ私の頭以外にも生きていますか、いやもしかしたら私の頭の中も間違って勝手に創作を継ぎ足しているかもしれない、それが怖い。
どれだけ汚くても残っていない感情はいつか忘れてしまうから、自戒と保存を兼ねて意識的に残していくことが何かになるとまだ信じていようと思います。
人都でした。
0 件のコメント:
コメントを投稿