2020年12月27日日曜日

感情郵便所

 こんちは人都です。

私はソーシャルゲームのアプリを人より多めにインストールしています。

それは「でみめん」との別れを経験したのちに、知ることの出来ないまま世界から消えてく誰かの推しをフラットに観測したくなったことが理由の一つで、悪くいってしまえば冷やかしでした。

ソーシャルゲームに限らず、キャラクタービジネスはインターネットに大量にあふれていて今日も飽和して消えていく者も多いでしょう。


TLにさらりと流れて行ったあの子にも、あの子でなければならないと花束をささげる人がいて場所によってはふざけるなと親指を空中に沈める人がいます。

感情は暴力でもありますが、暴力は体力と精神力を浪費します。

魔法少女まどか☆マギカではこのいわゆる希望と絶望の相転移、「感情エネルギー」こそが無尽蔵の熱源になり得ると解釈をされ、インキュベーターの真の目的として扱われていましたがまどかオタクを抜きにしてもこの考え方というのは案外的を得ているのではないかと思うのです。


感情は無からは生まれず、ほとんどの場合は自己とそれ以外の何らかの関わり合いによってぽろりと出現します。

この考え方から結ぶなら自らを感情が薄いと体感する人は、人もの問わず多くに触れずに大切に育てられてきたのでその分心の動きを経験しなかったことになり、感情と勘以外の生活動力が著しく欠けているぐらいに極端な私は、どうしようもなくミーハーかつインターネットの暴食によってすべての情緒回路が富士急ハイランド産ジェットコースターになってしまいました。

感情が多すぎるとこんな風に文を打っている間は良いのですが、社会での生活をする上では何度も「何?こいつ」という視線を向けられることになりますし何よりそれらの突然発生する感情衝動を二十歳を過ぎてもまだ制御できていません。


こんな人間がコンテンツに感情を向けると、ひどいことになります。

口で発するよりも流暢に感情を出力できる機械を手にすると、コンテンツの新しい供給を受け取った時に感情を全て脳の思うままにインターネットに垂れ流してしまいます。

この文章自体もほとんど言い訳なのかもしれません、ただはっきりと言えるのはあの140字らは他人の目を引くためのダンスでも縁起でも悲劇のヒロインごっこでもなく本当にどうしようもない肛門の神経が弛緩した老人のような吐露で、私自身も治さなければと思いつつその行先がどこにもなくなった暴力です。

ですけれど、Twitterに流すという事は便所の個室には不適当でその下水に流れていく感情を誰かが見て胃酸を口に含むかもしれません、ここはそれを止めるための便座でもある。


私がうっかり珍しくリアルタイム進行のアニメにハマり、それをテレビの前で観測してしまった時はもう本当にどうしようもなくなり、便座で数時間近く140字×nの感情と共に過ごすことになります。

それが分かっているのでリアルタイムのコンテンツにハマるのは恐ろしいのです、観測しないわけではありません、ただ時期をずらして作業をしながら履修して感情をわざと向けないようにおそるおそる観測しています。

私みたいなどうしようもない人間がリアルタイムで肥溜めから絵を描くような真似は、もうできれば、したくはない。


だからどこにもいないリヴァイアサンくんの記憶を語るのも本当にやめるべきです。

シナリオも設定もろくに明かされないままの悲しみも、広いコンテンツの海ではままよくある事のはずなのです。


世界の中で本当の限界を抜かしてしまうなら「自分だけの苦しみ」なんてものはなく日本どころか世界で、誰かが毎秒苦しんでいるでしょうし、意地の悪い絵本ならお前がラーメンを食っているときに遠い国で子供が死んだというでしょう。

自分の所属ジャンルをマイナーと呼ぶオタクは仲間に嫌われますし、どうしようもない劣等感をまき散らしたところでそんな事みんな分かって生きてるからとっとと失せと誰もが思っています。


だけれどもそれらのもっともな止めるべき理由を全て追い越してどうしても吐き出したくなってしまう感情は、こんなコンテンツの海の中でいつか自分が好きだった何かを自分以外が知らなくなってしまうのではないかという恐怖です。

良くも悪くも古いインターネットでは根気よく探せば個人サイトが見つかったり、有志の古臭くも暖かさのある半文字化けサイトがあったりしてその大昔のジャンルのリアルタイムの感情や感想を追体験させてくれます。

たしかに今様々なブログサービスは消え失せ始めていて失われている文献も多いでしょう、しかし今の2020年栄枯盛衰のキャラクターたちの多くはかつてほどの留める文献を持ち合わせていないかと思ってしまいませんか。


Twitterでしゃべるからええやんと思われる方もいるでしょうし、黒歴史になるだろという意見も大筋では同意しますが、Twitterはアカウントを消せばいくつもの感情は塵と消えますし、残ってもいない黒歴史はそもそも歴史の存在をその目に教えてはくれません。

私だってそんなに美しい言葉を紡げる技術を持ち合わせているとは思いませんし、曲がりなりにもSCP財団のコミュニティをかじっている中で特技が文字書きなんて口をY字開脚させても言えません。

それでも完成しない50ページ弱のネームより一枚のらくがき、一瞬の操作で消えてしまう言葉よりもホームページに綴られた汚い生き恥がオリジナルの創作や感情を残しておくのには適していると思います。


いつまでも覚えている、いつまでも好きでいるなんて言っても人生は100年の時代でこの世には誘惑と鬱がまみれています。

チャンネルもTwitterも消してしまったコンテンツはまだ私の頭以外にも生きていますか、いやもしかしたら私の頭の中も間違って勝手に創作を継ぎ足しているかもしれない、それが怖い。

どれだけ汚くても残っていない感情はいつか忘れてしまうから、自戒と保存を兼ねて意識的に残していくことが何かになるとまだ信じていようと思います。

人都でした。

2020年12月26日土曜日

脳のレシート

 
こんちは人都です。

あと一年も五日で終わってしまいますね。

今年についての所感について綴ってみようかと思いましたが、ぼくのなつやすみのような言葉で示すところの「今日はなんにもないすばらしい一日だった」が365日続いてしまったような一年でした。

波乱万丈な作品の二次創作ほど平和なパロディをしたくなりますが、平和な世界の私はどうしようもない創作で破壊承認を満たしました。


一日一日を見ればそれは当然若干の起伏や技術の向上はあったのですが、今思うと楽しかったことも鬱だったこともすべて打ち消しあってなだらかな現状に思えるのです。

ただでさえ一年目はコミュニケーションによる嘔吐トイレで苦しんだキャンパスライフすらも、今年は最初から最後までオンラインミーティングになり結果単位を全て取得できてしまい喜びよりも、どうしようもないことで落単を回避できた可能性にぼうっとしていました。

大学の苦しみってレポートや理不尽な教授ルールよりも、自分の寝坊や他人との比較から来る絶望の方が重大だったんですね。


ああ、今年は言うなれば他人の書いた長い文章を多く摂取した一年でした。

小説やエッセイ、というよりかはマシュマロとか増田やお気持ち、noteのようなインターネット長文コンテンツの話です。

文字を綴ることが得意な方ならわかってくださると思いますが、会話がままならない(というか会話は普通にできても相手とのコミュニケーションの際に思想と発言内容にフィルターをかけないといけない)生活をしていると、こんな風にキーボードを打っている方が脳から口を伝うよりも言いたいことが言えてしまいます。

当然それは悪いこともあるし、良いこともあります。

長所は誰からも止められずに自分の言葉だけで言いたいことが書けること、悪いことは誰もそれを校閲できずツッコむことが出来ないこと、それなりに長文を綴るのは時間が必要であること。

個人の思想を発言するよりも特濃にレシートするインターネットは、それだけ有益ではありますが出版物と違い他人の手が入っていないせいなのか、不思議とその文の粗削りさや文調に限らず体力と精神力を消耗します。

それは美しい生活であったり、誰にも引けを取らない豊富な知識であったり、もう誰にも言えなくなってしまった匿名の呪いでもあり、剣よりペンは人を殺せるというかのように後ろから心を一突きにしてしまいます。


そういえば、この文章だってインターネットのどうしようもない一つのアカウントの綴った毒にも薬にも思い出にもならないレシートですね。

読んでくれてありがとうございます、レスポンスは期待していない壁にボールを投げたような文章ですが、実は書き手なりに閲覧数だけはちょっとだけ楽しみにしているのです。

ちなみに今年一番閲覧数が高かった記事は、ケータイ捜査官7と幼い私とブログの思い出話でしたよ。

小学生の私が知っていたブログのように、本当に今日あったことだけを書いて五行ぐらいで済ませる記事は一周回ってハードルが高いですがもうちょっと肩の力を抜いてもいいのかもなとは思います。

ただそうなるとツイート、ツイートよりフリートが便利すぎてしまいます。


いちおう今年のまとめのような文を打とうとしていますが、別に今年の更新を今日で終わるとかいう締め日のつもりはありません。

気が付いて何か言いたくなったらキーボードをガタガタさせて一つの文章を作る方が様々な表現よりも一番気性にあっている。

もしかしたら私のキーボードはほとんどサンドバックなのかもしれませんね、よくタイピング音が大きすぎるって身内に言われるぐらい元々打鍵音が大きいですし。

どうせ誰が読むかもわからない。

今よりもっと闇に生きていれば、それこそ私は本当に鍵垢で自分でも意味の分からない害のない難文をマシュマロに包んでバーチャルライバーに送るだけで生活をしていたでしょう。

いや、そちらの方が良かったかもしれません。


正直自分の絵に対しては「かわいい服を着たどこのTLにもいるようなかわいい女の子があいまいに微笑んでいる」ぐらいの含有思想がわざと無く、正直なところこんな石油とカミツレをおでんのダシで煮つけたような制御の出来ない暴力で私のかわいいを汚したくない気持ちからそれが正解とされています。

可愛い女の子にとって変化が最も恐ろしい、思い出の中でじっとしてくれなんて言わないけれど年月が流れていくことがなによりも怖くてたまらない、今最善だと思った筆先の表現が一週間も経てば自分の内臓をえぐっていく。

感情と感性はいつだって暴力で、たった140字ですら再起不能に叩き込むことが出来る非・権力者が誰しも持つもっとも恐ろしい凶器で、薬物で花束です。

全ての好きに対する責任を取れない。


それなのに好きをひたすら他人に伝えたくなってしまいます。

どうして?

内訳の八割はコンテンツに対するろくに金も落とせないくせに終わってほしくないと駄々をこねるガキで、二割はこんなしょうもない娘を家に置いている身内へのギリギリ人間的感謝です。

コンテンツに対する好きは、人に対する好きとはまるで違っていてそれは唯一浮気が社会的に受け入れられたサイレントの薄汚い消費の恋で、キャラクター商売には欠かせないものです。

この生きとし生ける人への好きとコンテンツへの愛好の意思の真ん中にバーチャルは存在しています。

いえ、バーチャルに限らずTwitterが面白いDJであったり、作業通話ががかわいい同人絵描きであったり…人と発信の距離が近くなって、だけれども遠ざかって、生身の人をまるでコンテンツのように指先にくるくるする。

当人同士にすればただの人間関係を良かれと思いうっかりコンテンツとして扱ってひどく悲しい結末を見たことも、口に出さずに記憶にちらついて恐ろしくなる秒があります。

そして私も誰かにとってはコンテンツの可能性もあります。

こんなにつまらないのに?まさか。


コンテンツは辞書的な言い方をすればそれは中身であり、情報それ自体であったり、本の目次のことを指すようです。

さすがに中学二年生を過ぎていて「偏在したい」なんてことを言ったりはしませんが、思い付きでふとアカウントを消したときに「あれ、いないんだ」と思われるインターネットをしたいです。

偏在は文字面はかっこいいですが、偏在して成功したかっこよさなんてものは玲音ちゃんぐらいなもので、ほとんどは俗名を例のアレ・インターネットのおもちゃといいます。

結局難しい熟語を並べて奉ったところでその言葉たちの送信先として世界や世間のような広い承認が本当に欲しいわけではなく、自分一人のことにしてしまうのならそれはすれ違ってしまう「私を覚えていてくれ」というわがままにしか過ぎないのでしょう。

どうかこれが誰も言わないだけの潜在的なよくでありますように、そうでなければこれだけ考えを整理したっていつかのセンター試験に出題された葛藤する現代文の女のように「メンヘラw」と言われて終わりです。

周りだけどんどん進んでいるような、あくせくと進んでいるはずなのにコロナ禍でただでさえブラインドの世界で家系とバイトと通ったカードの宛先を除いた何人が人都トトじゃない私を覚えているでしょうか。

もちろん本名を公衆の面前にばら撒きたいわけではありませんし、現実の対人関係が無いことをヒステリックに悔やんでいるわけでもなく。

私は人生の豊かさの何割を人都トトとして歩くんでしょうか。

花譜ちゃんの歌詞じゃないけれど、現実に居場所をなくしたり沢山失敗したりしたから、ここにしかもう選択肢もペルソナも本当に言いたいこともないんでしょう。

人によって器用にロールプレイを切り替えていく中で、一番素直な私がもう本名ではなく人都トトに侵略されています。

私は人都トトです、脳はそういってるし間違いありません。



書きたいことを書くとやっぱり本当にそれはレシートのようで、見苦しいものです。

それでもちゃんと読んでくれたあなたはとても優しいひとです。

よければ来年もまたお付き合いください。

人都でした。たぶん





2020年12月24日木曜日

魔法見習いはそのままで

こんにちは人都です。

今日は若干「魔女見習いをさがして」のネタバレを交えながら軽い文を打ちます。

時は経っていますが、ネタバレが嫌な方は読まない方がいいかもしれません。


映画『魔女見習いをさがして』公式サイト (lookingfor-magical-doremi.com)

もう見てから一カ月も以上も経ってしまったんですね。

あの日は久しぶりの映画館で、立ち振るまいを思い出せずに40分ほどドリンクとポップコーンを両手にして開場まで便所も行けない地蔵になりました。




二十周年にあたるおジャ魔女どれみの系譜コンテンツのようで、実はそれらを所属ジャンルとする女オタクたちの感情に完全に舵を切っていたメタ映画の公開から。


言ってしまえば、あの映画は正直なところアニメである必要はありませんでした。

どれみちゃんは私たちが子供だった頃のフィクションだった。

大衆が許すかは別として、実写でもよかった。

最悪の話、どれみちゃんを知らなくったっていい映画だった。

この映画を取り巻く世界にはどれみちゃんはいませんし、都合のいい運命は存在していたとしても魔法はどこにもありはしない「おジャ魔女どれみ」がコンテンツとして放映されていただけの限りなく現実に近い場所です。

そう「おジャ魔女どれみ」が作中作だった、入れ子構造のような説明しずらい世界の物語です。

少し前に「綾城さん」にまつわる「同人女の感情」というネット作品が大バズりしましたよね。

それに限らず、今年は特に「ネットメタ」な作品が感情及び鑑賞者に傷をつけて反響を得る、といった手口が流行っていたと思うのですがこの作品もある種、そんな架空の女オタクに照準を合わせた物語でした。

完全に大人向けの、悩みを酒と強引な行動でかき消していくような映画。

今思えば、声優のキャスティングもそんなことを前提に組まれていたのではないかと思います。


ところで、魔法少女コンテンツを曲がりなりにもメインにしている人の言えたことではないですが、この世には魔法も奇跡もありません。

そしてそれは救いでもあります、私は冗談を抜きにしてこのクソみたいな現実で魔法や奇跡をエサにして人を集める人のことは嫌いです。

それは漠然とした才能嫌いの延長にあるもので、その才能がもし本当にひそかな努力の積み重ねではなく本当に天から恵まれた超常的なギフテッドであったなら私は暴れながらお酒を裏アカウントに流し込むほかありません。

就活の延長線上に見つけたこのコミュニティに属すればイキイキと人生の意味をさがせる!なんていう啓蒙の混じったコミュニケーション集団のPS5が買えそうなセミナー金額を見て、丁重なビジネスの断るメールを入れるようなそんな生活です。


ですが、幼いころのフィクションはそんなことを知らない私には希望を与えていました。

家にはジュエリーポロンがありますし、ハナちゃんのコンパクトもあります。

いえ、希望というほど壮大なものではないかもしれません、ただ単純に見ているのが楽しかっただけ。

記憶は朧気だしいつでも美化されますが、それでもどれみちゃんは好きでしたから私は今回の映画においてはかなり当初から杞憂民の態勢を構えていました。

ですから今回のような物語の形は、私にとっては救いでした。

おジャ魔女どれみのライトノベル続編を一度読んで見ないふりをした経験がありますが、私は過去の美しさに対しては下手に蒸し返すことなく硬化してほしいと思っている人間です。

だれかはあの映画を「どれみちゃんの偶像化」だと批判して言いましたが、私にはそれが賛意として最も適切に思えました。

どれみちゃんがこんな令和の世界に復活してほしくはないし、成長したどれみちゃんたちが再び魔女見習いをする姿なんて見たくもない。

記憶の中でずっと小学生でいてほしい、動かないで。

だからとても良かったです。

私のコンテンツ価値観が世間一般と異なることに関しては、もう諦めています…。


どれみちゃんが変わらないでいてくれて、本当に良かった。

最近は本当に私たちぐらいの魔法女児向けコンテンツのリメイクや配信が増えてきましたよね。

コンテンツ公式がお金を出せる年齢を察知したと言ってしまえばそれまでなんですけど。


次はきっとセーラームーンの映画ですよね。

個人的には東京ミュウミュウのリメイクに関してはかなり怯えています。

まあね!私のような考え方は世間一般ではほとんど老害です。

どうにかなりませんかね?

人都でした。


2020年12月16日水曜日

ビブリオバトルをしてた話

 

こんにちは、人都トトです。


私は昔、イラスト関係よりも長く文学部という文芸を扱う部活動に6年間在籍していました。

そのせいもあって若干一般人よりは小説であったり短歌であったりを作っていた時間が長いのですが、Twitterランドではそんな経験はありふれた風前のカスです。

むしろ私はそこで一時期「ビブリオバトル」というものに没頭していました。

皆さんはビブリオバトルをご存じですか?


ビブリオバトルとは


簡単に言えば「好きな本ダイマバトル」です。


ルールもシンプル。
自らと好きな本を一冊のみ壇上に持ち込み五分間ダイレクトマーケティングして、三分ぐらいの鬼質問タイムを乗り越えて最も読ませたくなったら勝ち。

つまり台本を持ち込むことはできず、否が応でも前を見なければやっていけません。

穴抜けルールとして本に付箋を貼ることは許可されますが、私から言えばそれは邪道です。

五分間を自分の愛と宣伝力だけで持ちこたえて相手の心を鷲掴め。

それがビブリオバトルです。


オタク的にはよく「○○君のことなら余裕で五時間ぐらい話せる」とか言ってしまいがちですが意外にも何の資料もなく、それでいて支離滅裂な感情を抑えて初見の他人に簡潔に魅力を伝えるというのはやってみるとかなり難しいものです。

私のプレイングスタイルは主にその書籍について感想を書き出してから台本に再構成して五分に収めそれを暗記しつつ、相手に投げかける話題やアドリブにできる自身の軽い投げかけ漫談を作っておくというものでした。

プレイングスタイル、というと大げさに聞こえるかもしれませんが実際自由の五分間において魅力の伝え方というのはかなり個人差があって、例えば本の感想に大幅に自分の経験談を絡めるエピソードトーク型や声の出し方や聴衆の巻き込み方が卓越したセリフ読みガチで上手い型、社会問題を提示しつつ本でそれを紐解くコラム型や純粋にこのキャラが愛おしい!っていう感情で場ごとでけぇ愛で飲み込む推しラブ型などなどかなり個人差があるんですよ。

ただ、私が本当に好きなジャンルで関東大会に出たときに自分の出番後に宗教校ガールに王道の泣ける絵本で票をかっさらわれた時だけはちょっとトイレで泣きました、ズルじゃん、ズルじゃないけど…。

私は一度マジで文学部が潰れかけて実績を作らんとヤバいというときに、単身ビブリオバトルに特攻しまくりギリギリ予算を食いつなぐという若干漫画にはなりきれないような映えない青春を送っていました。

でもそのおかげもあって、Googleで本名を入れれば入賞実績とかインタビュー記事が出てくるのは数少ない言えないタイプの誇れる実績です。

こう見えて場数だけは踏んでいるので心臓は剛毛。

あとビブリオバトルのおかげもあり、今就活中のインターンとかでも台本をほとんど見ずに頭に入れ聴衆に向かって話し続けるという友達少人らしくない特技を会得したのはラッキーでしたね。

短期記憶が得意になったのはデカいです。

好きな本に限らず好きなジャンルの話はどんどんしましょう、再放送しましょう、インターネットの大海でコンテンツは出会えなければ知れませんからね。

推しの話をしましょう、私もします。

もしかしなくても推しのダイマをするときが一番ビブリオ経験が生きているかもしれませんね。

あなたもそう思いませんか?


人都トトでした。




2020年12月15日火曜日

「わがままファッション」はおわらない

 

こんにちは、人都です。

DSのゲームをレトロゲームという事は憚られますが、実際無印やlightあたりのゲームは私にとっては知る限りの大昔です。

わがままファッション ガールズモード 任天堂 https://www.amazon.co.jp/dp/B001F7BOXY/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_J8g2FbHR1PFJG

今でこそamazonを見れば大したことのない値段ではありますが、小学生の子供にとって今欲しいゲームの選択は重大なものですよね。

このガールズモードは、簡単に言えば着せ替えゲームとパズルのような要素が組み合わさったファッションショップをゆるく疑似経営するシュミレーションゲームです。

服屋にやってきた様々なファッション趣向を持つ女性たちの好むブランドや要素を見極めながら、希望のアイテムやトータルコーディネートを提供し、時にコーディネートコンテストに出場して店の評価を上げ、雑誌取材を呼び込んだりする。

慣れてしまえばどんな女性がどんなブランドを好むのかは容姿で分かるようになります。

ギャル系なら大体AZ♡USA、見るからに高そうな生地の女はCh、ゴスロリ系はRavenCandleでゴスっぽいけどロックで治安が悪かったらたぶんJack-tar。

簡単に言ってしまえば、見た目で分かるブランドを客に提示すればまあ間違いなく売れるようになるゲームです。

ヤバい色の服を着ている人にはLovitsを出せば売れるし、バケツ塗りみたいなトーンの女の子にはplainclothを渡せば、まあ売れるのです。

ただし、ここでやんわりとした葛藤が生まれます。


ひとつのブランドでそろえると、まず七割ぐらいの割合でクッソダサくなるのです。

この女は身に着けている服のブランドから派手好きサイケのLovitsを脳死で全部乗せすれば、まあ確かに買っていくでしょう。

一応この女はレトロブランドのカプセルドロップも好むのですが、それはプレイヤー経験値の話なのでちょっと置いておきます。

ですがこのゲームにファッションセンスや可愛さやおしゃれさを求めている側からすればここで若干の葛藤が生まれます。

ゲームとはいえ、このクソダサの塊を女に買わせるのってどうなんだ…?


仮にLovitsを全部乗せすればこんなコーディネートが作れます。
もう店辞めろ!

このゲームの目的はストーリーを過ぎてしまえばアイテムやコンテストのやりこみ以外には特に存在しません。

そもそも本当に金を稼ぐだけならハイブランドの代名詞であるChに完全に舵を切って、金を落とすオフィスレディにだけリソースを割いていけばいいのです。

サイケなアイテムをいかに落ち着かせて、客の理解の喉を過ぎられるように他のブランドアイテムを自分のセンスで混ぜ込んでいくか。

まず柄に柄を合わせるのは個人的には落ち着けません、あとヒールに靴下は限界すぎるけど寒いシーズンだからできれば生足はちょっと嫌だね…。

(一応季節の概念があり、寒い時に半袖を出すと拒否されたりします)

じゃあ靴と靴下を止めて靴下とスニーカーが一体化したAZ♡UZAの派手な履物に取り換えましょう。

Gジャンにバルーンスカートもちょっと気になるのでTERSEの紫色のチェックの入った七分パンツに取り換えます。

この女の人は紫のフレーム眼鏡に紫のTシャツ、靴にも紫の装飾を付けていますから、たぶん紫なら許される!



Lovits成分を半分に抑えつつ、無難にまとめました。

自信はありませんが(そもそもサイケは苦手中の苦手)自分ではまあ許せる感じになりました。

お客様にコーディネートを見せてみましょう。


知ってた。

二個違うブランドを混ぜるとすぐに飲み込んでくれません、君どうしてうちのゴシックロイヤルな店に来てるの?


仕方が無いのでバルーンスカートを入れてブランドで暴力を働きます。

正直嫌なのですが、遠目から見れば緑なので許せる気がします。

当店には今サイケブランドの靴もズボンもまともに在庫が無いのです。

というかマメにやってないから在庫の半分ぐらい夏物のハンデ。

よく見たらジャケットからTシャツが見えてるのかなり嫌!

後で商品の仕入れの予定を立てながら再びお客様にコーディネートを提案します。


お前ブランド感知BOTか?

無事にお客様は満足して購入し、帰宅されました。


私におしゃれは分からん…。


このゲームは如何に客の好みを満たしながら、自分のセンスで気持ち悪くないものを作り上げるかという遊びの要素を持つものだと思います。

変なところで現実味を感じますよね、客に求められたありあわせの百点が自分の感性にないものだった時のぼんやりした気持ち。

でも、だからこそこのゲームは飽きません。

システム的な正解パターンが分かっているうえで如何に限られた購入枠の中で服デッキ(在庫)をそろえて最善の折衷案であらゆるお客様にコーディネートを作成するか。

お客様のパターンはありえないほど多く、何年もプレイしている私でも先日新しいお客様に遭遇できたぐらいランダム性と趣向が多様なゲームでもあります。

そのくせ隠れ好感度でもあるのか、そのうちのお客様のいくつかは主人公を季節のイベントに誘おうともしてきます。

嫌いになれないんだよなあ、かわいい女の子が好きだから。



最近、ターン性のデッキビルド系ローグライクゲームにドはまりしているのですが、意外にもその原点はこのどこにでもありそうなくせに奥が深い着せ替えゲームにあったのかもしれません。

そういったある種の戦略と美学が混じったゲームには、ガチャと萌えが無くてビジュアルがやぼったくてもとにかくゲーム性が良ければ何時間でものめりこんでしまいます。

自分で考えた案が一発で通る感覚は、ゲームであっても現実であっても最高のクスリですよね。

ガールズモードのシリーズはこの作品の後にもいくつか続編を出していますが、そのいずれも私はプレイしていません。

自費でゲームを買うならまずポケモンって感じになっちゃいましたからね。

それにあまりにもこの初代ガールズモードが完成されすぎていて、次なる展開や進歩を求めなかったのもあると思います。

それは実はガールズモードに求めていたものが、ナウでおしゃれなトレンドの着せ替えではなく独特な客とプレイヤーの美学折衷ゲーだったから、かもしれません。


ちなみにラナンキュラスの商品はマジで全然集まってません。
あのゲームのやりこみ要素どうかしてるよ。

人都トトでした。


2020年12月10日木曜日

わからないことをわかること

 

こんちは人都です。

突然ですが、皆さんはボーカロイド曲の歌詞の意味をYahoo知恵袋で聞いたり、Youtubeのコメント欄に自論を書き込んだりする時代はありましたか?
私は、別に書き込みこそしませんでしたが漁る事には積極的な部類でどう見ても公式じゃないタイプの考察本にもうっかり手を伸ばしてブックオフに投げ飛ばしていたりしました。
なんだろう、Pixiv百科事典に無意識で書かれた二次創作ヘッドカノンを読み漁って混同したりもした。



小さい頃は何故かしっかりと理解できないという事が嫌で嫌で仕方なく、そのせいもあって早いうちにインターネット有象無象に触れていました。
基本的に元来もやもやとした白黒の付かない煮え切らないなよなよしたものはうっとおしい気がして苦手な部類でしたから、分からない・答えがないという事に良いなと思えたのは割と最近のことです。


およそ1年前に、千葉市美術館で開催されていたアートグループ「目」の企画個展、「非常にはっきりとわからない展」という展示を準レギュラーの友人と見に行きました。
後から聞きましたが大佐はほとんど初めてプライベートで美術館に行ったそうです、巻き込んで誤爆する可能性の方が高かったのになんかごめんな…。
展示系のイベントで写真を撮ることが気性で苦手なせいでまともな画像がありませんから、上手に文面で説明できる気はしませんが覚えているものを書いていこうと思います。
実際展示中は詳細なネタバレは控えてほしいというタイプのコンセプトでした。
もともと完全撮影禁止の展示物なんですけどね、上記の写真はロビーのもので外装以外に唯一撮影許可がされていました。
記憶に加えて別のインターネット報告も資料に加えて書いているのであしからず。
まず美術館に入る前の円柱からして、ちょっとぎょっとするような見た目が出迎えます。
この黄色の群れは来場者が胸に貼ることとなる「AUDIENCE」と書かれたシールです。
ちなみに別にこの円柱のそばに『君も名札を貼って存在証明作品をしよう!』みたいな掲示があるわけでもなく、センセーショナルな見た目の割にこれ自体は展示物でも何でもありません、そうだったはず。
わかんないですよ。
あと私はこういう時に「これが…わからない…アートに言葉などいらぬ…感じるのじゃ…」みたいな俺は賢いフィーバータイムみたいなことをいう系の人種とは相容れません。
説明がない、それだけのことやろ!

そもそもこの展示はネタバレ禁止のやんわりな緘口令が敷かれてこそいましたが、SNS上での序盤感想は語彙力が落ちるぐらい受信した感情の言語化がすっごく難しいんです。
そのあとで若干バズって観客が押し寄せたそうですが、個人的には早めに向かうことが出来てラッキーだったと思います。
この展示物は全体にかけて非常にメタ性の高い内容です。
SCP記事の第四の壁や読者干渉系統を初見で見て感想言えって言われても困らない人?あ、困んない、そう…。

この特別展の特殊な環境として、千葉市美術館が大規模リニューアル中だった、実際に工事現場であったという前提があります。
実際に美術館の外にも工事現場にありがちな柵や廃棄物か資材かよくわからないものが適当に置かれており、ちらちらと土木担当らしい人の姿もうかがえたはずです。
どう見てもリニューアル工事のため休館しております、といった様相。
移動するためのエレベータの中すらも、引っ越しの時に敷かれるようなシートで埋め尽くされていました。
ストレートに言って客に見せる様子ではないと思うんですが、あそこまで演出の内なのかそれともそれすらガチ工事なのかと区切りの認識が混濁しますね。

私たちが訪れたのはだいたい13時。
展示場は7階と8階。
順路の掲示すらはっきりと示されていなかったために、私たちは先に上から見ていこうかという話になりました。

引っ越し中のマンションのようなエレベーターを降りると、そこに広がっていたのは何らかの搬入現場。
足元にはブルーシートがひかれ、何に使うんだという感じの資材や簡単なDIYの類の道具、ほおりだされた雑巾やメジャー。

あ、千葉市美術館という工事現場自体を展示物の舞台にしようとしているっぽいぞ、とここでやっと気づきます。
いや、本当にこれが展示物なら割とバグで事故です、本来客に見せるもんじゃないわ。
エレベーターホールから少し歩みを進めると開けた空間に出ます。
そこには時計の針をたくさん吊り下げたような展示や奇妙な形の絵画が展示されていました。
いや展示途中かもしれません、そこには先ほどの通路と同じく資材や工具、ガムテープが無造作に積まれ、なんかしらんゴミや汚そうなものすら落ちています。
先ほどよりはいくらか「想像できる美術館っぽい(同行者談)」展示ではありますが、そのスペースは大して広いわけではないものだったと記憶しています。
いわゆる視覚的に見ていて楽しく、若干の狂気と執念と思想を感じる実在物。
ただしその中のいくつかは梱包で覆われていて、まともに目に据えることも叶いませんでしたが。
一通りを見て回って「このチームは何を見せたいんだよ?」というわからないを確認した後、私たちは梱包材巻きのエレベーターに乗り込み下階へと移動しました。
今思うとおそらくあの展示を見に行くのには最高のタイミングをとらえることが出来ていたように感じます。

7階に降りると、気づきました。

引っ越し中のマンションのようなエレベーターを降りると、広がっていたのは何らかの搬入現場。
足元にはブルーシートがひかれ、何に使うんだという感じの資材や簡単なDIYの類の道具、ほおりだされた雑巾やメジャー。

そう、全く同じ情景です、ここで若干の「わかる」をやっと獲得できます。
この展示会は7階と8階で全く同じ位置を保ち、全く同じ乱雑さを維持していました。
そこらにほおられた紙屑すらも確か同じはず。
見回ってみても違うところは記憶の限りでは無い。
文字だけで書けばそんなに怖いことはないでしょう、タネは本当に超単純です。

2人で顔を見合わせながら展示場をふらふらしていると立ち入り禁止の奥から複数人が現れました。
見る限りの一般人です、ただ胸元に黄色いシールは見当たりません。
そのスタッフたちはは適当に声を掛け合い何かを指さしたり目星をつけながら、設置してあった道を撤去したりカラーコーンを置いたり、そもそも遮ってしまったりとリアルタイムで展示物の様相を変更してしまいました。
それも掛け合いの内容も意味が理解できるように通っておらず(たしかそのはずです)、それは何の意味を持つのかを分からせないまま目の前で何かが変えられていく。
それも非常にもったりと。
まるで来場客なんて見えておらず、定休日に準備でもするみたいに独特なペースで、ほとんどありえないような不可視なこちらとの距離感で。
展示物であろうものの場所を動かす。
それがぽつりぽつりと、展示エリアにて同時多発的に行われていました。
異様に思った私たちはその「儀式」が終わった後に再び7階に移動します。
するとどうでしょう、初めて目にした時とは展示物の表情が異なりました。
全てがたった今、8階で動かされたはずの様相に変わっているのです。
永遠に何も終わりはしない作業を、繰り返しているだけ。
むしろ展示物に対した意味はなく、異世界奴隷労働回し棒のようなスタッフがあってこそギリギリアートとして成立する空間。

あれです、有名なものにP.T.ってゲームがあるでしょう?
今はもうプレイできないはずの、同じ配置の続く不思議なミニマムな空間を扉をくぐる度に通過しながら、徐々に現れる僅かな差異と異常に怯えることが主の小さなサイレントヒル系列新作告知用ホラーゲームです(たしか)。
あの感覚を肌で、現実で実体験するような空間でした。
私たちは何度かあの空間がわずかに動くたびに確認するための行き来を繰り返し、ついにはその両方の階のどちらが8階でどちらが7階なのかわからなくなってしまいました。

7階と8階の確かで僅かな差異は、7階に併設されたミュージアムショップの有無です。
この展示会の間違い探しの上で、ある種の正気度のセーブポイントでもあるこの店に一度入ろうとしてビニールの暖簾をくぐればそこは8階の掲示物のみの壁でした。
当然エリア内は撮影禁止でしたし、スマートフォンを出せるような状況でもなかったためどこにも証拠を残せない構造です、答え合わせが出来ないんですね。
エリアには均衡を保つためなのか階層表示すら隠されており、今どこにいるのかを確実に知るためにはエレベーターに乗るほかないのです。
上昇する機械というよりもパラレルな世界へ連れていく未来装置になってしまったかのような不安感。
半分巻き込み事故でしたが、同行者を連れて行ったのは正解でした。
美術館を後にして入ったサイゼリアで、食事もそこそこに感じた取りとめの無いことを共有することがようやく叶い、分からずとも若干の安心を得られましたからね…。
あの展示物はこちらにどんな意図をわからせたかったんでしょうか?


手元に残ったのは食べれば無くなる「わからない」キャンディのお土産。
それ以外のお土産商品はポスターや予約段階のパンフレットで、給料日前にはとても手を出せる金額ではありませんでした。
食事を終えて、意味もなく千葉市の科学館に行って、そのあとに再入館をしたものの行われていたことは意味が分からないながらも、永遠に終わらない搬入作業のようでした。
同行者からは別れた後に「工事現場が不気味に見える」と連絡をもらっていました。

的外れを覚悟にあえて言いましょう、「目 非常にはっきりとわからない展」の内容は美術展示というよりも演劇鑑賞に近いものです。
そして現代アートは若干やったもん勝ちというか、度肝を抜きすぎてお前が何を言いたいのかわからないというものもありますがこれは本当にそういう、奇抜かつ地味な剥き出しのアイデアに薄く味を付けた展示物でした。
あんなものを始めて見たために私は衝撃こそ受けましたが、きっと似たようなものをどこかで見てしまったならその時私はつまらないと言うと思います。
もしかしたら永遠に始める気のない展示会かもしれん、セカイ系、気持ち悪い、美しいわけじゃない、やろうと思えば誰でもできる。
誰が見ても美しいではなく、誰が見ても理解できない。
わかるを与えてくれるキャプションが入り口とパンフレットにしかないんですよ、あれは立体的な演劇の舞台を鑑賞者に歩かせる実験です、ついでに説明はなく。
答えのない謎解きを豪速球で投げかけてきたのに、答え合わせのシートはどこにもない。
ただし、その代わりの描写の緻密さが狂気的。
あと運よく私たちが8階で最初に動かしているところに出くわさなかったのも運が良かったのだと思います。
よく言えば考えさせられる、めっちゃ悪く言えば丸投げのアートです。(ただパンフレットを購入しなかったのでこちらが知ることを怠った点もある)
ただ、その演劇と言わない演劇がこちらに異様な緊張感を持たせたことも事実です。
スタッフたちの前で地蔵していれば、一連の行動軸は分かるのかもしれませんが理解には及ばない、それが不気味です。
わからない展のチケットは珍しいことに、一度買えば会期中何度でも訪れられるという定期券めいたシステムがすべてに付いていてそれを考えると妥当な入場料だったのでしょうが、Twitterとかでバズってワクワク!とか話題の美術にドキドキ!みたいな気持ちでいくと肩透かしを食らうんだろうな…とは思いました、私は嫌いじゃないですけどね。
私は私の知らない面白いことをする、贅沢で意味も分からないものが好きです。


最近好きな作品の一般評判が悪いことが多く、価値観が普通ではない恐れが出てきて困っています。
わからない展も黒箱展ほどでないにしろ賛否両論でしたね。
でも黒箱展はやってる人のことが好きません。
黒箱展は小さな個展会場に暗所を作り上げてそこに観客を入れてかき混ぜるような展示でしたし、サザエさんbotみたいな存在は私の性根からして苦手です。
出オチネタは作りこみが丁寧だと時間の素材が贅沢で良いですね。

挿絵を増やそうとしたら永遠に更新できなさそうなので、ここで終わりです。
人都でした。