2020年12月26日土曜日

脳のレシート

 
こんちは人都です。

あと一年も五日で終わってしまいますね。

今年についての所感について綴ってみようかと思いましたが、ぼくのなつやすみのような言葉で示すところの「今日はなんにもないすばらしい一日だった」が365日続いてしまったような一年でした。

波乱万丈な作品の二次創作ほど平和なパロディをしたくなりますが、平和な世界の私はどうしようもない創作で破壊承認を満たしました。


一日一日を見ればそれは当然若干の起伏や技術の向上はあったのですが、今思うと楽しかったことも鬱だったこともすべて打ち消しあってなだらかな現状に思えるのです。

ただでさえ一年目はコミュニケーションによる嘔吐トイレで苦しんだキャンパスライフすらも、今年は最初から最後までオンラインミーティングになり結果単位を全て取得できてしまい喜びよりも、どうしようもないことで落単を回避できた可能性にぼうっとしていました。

大学の苦しみってレポートや理不尽な教授ルールよりも、自分の寝坊や他人との比較から来る絶望の方が重大だったんですね。


ああ、今年は言うなれば他人の書いた長い文章を多く摂取した一年でした。

小説やエッセイ、というよりかはマシュマロとか増田やお気持ち、noteのようなインターネット長文コンテンツの話です。

文字を綴ることが得意な方ならわかってくださると思いますが、会話がままならない(というか会話は普通にできても相手とのコミュニケーションの際に思想と発言内容にフィルターをかけないといけない)生活をしていると、こんな風にキーボードを打っている方が脳から口を伝うよりも言いたいことが言えてしまいます。

当然それは悪いこともあるし、良いこともあります。

長所は誰からも止められずに自分の言葉だけで言いたいことが書けること、悪いことは誰もそれを校閲できずツッコむことが出来ないこと、それなりに長文を綴るのは時間が必要であること。

個人の思想を発言するよりも特濃にレシートするインターネットは、それだけ有益ではありますが出版物と違い他人の手が入っていないせいなのか、不思議とその文の粗削りさや文調に限らず体力と精神力を消耗します。

それは美しい生活であったり、誰にも引けを取らない豊富な知識であったり、もう誰にも言えなくなってしまった匿名の呪いでもあり、剣よりペンは人を殺せるというかのように後ろから心を一突きにしてしまいます。


そういえば、この文章だってインターネットのどうしようもない一つのアカウントの綴った毒にも薬にも思い出にもならないレシートですね。

読んでくれてありがとうございます、レスポンスは期待していない壁にボールを投げたような文章ですが、実は書き手なりに閲覧数だけはちょっとだけ楽しみにしているのです。

ちなみに今年一番閲覧数が高かった記事は、ケータイ捜査官7と幼い私とブログの思い出話でしたよ。

小学生の私が知っていたブログのように、本当に今日あったことだけを書いて五行ぐらいで済ませる記事は一周回ってハードルが高いですがもうちょっと肩の力を抜いてもいいのかもなとは思います。

ただそうなるとツイート、ツイートよりフリートが便利すぎてしまいます。


いちおう今年のまとめのような文を打とうとしていますが、別に今年の更新を今日で終わるとかいう締め日のつもりはありません。

気が付いて何か言いたくなったらキーボードをガタガタさせて一つの文章を作る方が様々な表現よりも一番気性にあっている。

もしかしたら私のキーボードはほとんどサンドバックなのかもしれませんね、よくタイピング音が大きすぎるって身内に言われるぐらい元々打鍵音が大きいですし。

どうせ誰が読むかもわからない。

今よりもっと闇に生きていれば、それこそ私は本当に鍵垢で自分でも意味の分からない害のない難文をマシュマロに包んでバーチャルライバーに送るだけで生活をしていたでしょう。

いや、そちらの方が良かったかもしれません。


正直自分の絵に対しては「かわいい服を着たどこのTLにもいるようなかわいい女の子があいまいに微笑んでいる」ぐらいの含有思想がわざと無く、正直なところこんな石油とカミツレをおでんのダシで煮つけたような制御の出来ない暴力で私のかわいいを汚したくない気持ちからそれが正解とされています。

可愛い女の子にとって変化が最も恐ろしい、思い出の中でじっとしてくれなんて言わないけれど年月が流れていくことがなによりも怖くてたまらない、今最善だと思った筆先の表現が一週間も経てば自分の内臓をえぐっていく。

感情と感性はいつだって暴力で、たった140字ですら再起不能に叩き込むことが出来る非・権力者が誰しも持つもっとも恐ろしい凶器で、薬物で花束です。

全ての好きに対する責任を取れない。


それなのに好きをひたすら他人に伝えたくなってしまいます。

どうして?

内訳の八割はコンテンツに対するろくに金も落とせないくせに終わってほしくないと駄々をこねるガキで、二割はこんなしょうもない娘を家に置いている身内へのギリギリ人間的感謝です。

コンテンツに対する好きは、人に対する好きとはまるで違っていてそれは唯一浮気が社会的に受け入れられたサイレントの薄汚い消費の恋で、キャラクター商売には欠かせないものです。

この生きとし生ける人への好きとコンテンツへの愛好の意思の真ん中にバーチャルは存在しています。

いえ、バーチャルに限らずTwitterが面白いDJであったり、作業通話ががかわいい同人絵描きであったり…人と発信の距離が近くなって、だけれども遠ざかって、生身の人をまるでコンテンツのように指先にくるくるする。

当人同士にすればただの人間関係を良かれと思いうっかりコンテンツとして扱ってひどく悲しい結末を見たことも、口に出さずに記憶にちらついて恐ろしくなる秒があります。

そして私も誰かにとってはコンテンツの可能性もあります。

こんなにつまらないのに?まさか。


コンテンツは辞書的な言い方をすればそれは中身であり、情報それ自体であったり、本の目次のことを指すようです。

さすがに中学二年生を過ぎていて「偏在したい」なんてことを言ったりはしませんが、思い付きでふとアカウントを消したときに「あれ、いないんだ」と思われるインターネットをしたいです。

偏在は文字面はかっこいいですが、偏在して成功したかっこよさなんてものは玲音ちゃんぐらいなもので、ほとんどは俗名を例のアレ・インターネットのおもちゃといいます。

結局難しい熟語を並べて奉ったところでその言葉たちの送信先として世界や世間のような広い承認が本当に欲しいわけではなく、自分一人のことにしてしまうのならそれはすれ違ってしまう「私を覚えていてくれ」というわがままにしか過ぎないのでしょう。

どうかこれが誰も言わないだけの潜在的なよくでありますように、そうでなければこれだけ考えを整理したっていつかのセンター試験に出題された葛藤する現代文の女のように「メンヘラw」と言われて終わりです。

周りだけどんどん進んでいるような、あくせくと進んでいるはずなのにコロナ禍でただでさえブラインドの世界で家系とバイトと通ったカードの宛先を除いた何人が人都トトじゃない私を覚えているでしょうか。

もちろん本名を公衆の面前にばら撒きたいわけではありませんし、現実の対人関係が無いことをヒステリックに悔やんでいるわけでもなく。

私は人生の豊かさの何割を人都トトとして歩くんでしょうか。

花譜ちゃんの歌詞じゃないけれど、現実に居場所をなくしたり沢山失敗したりしたから、ここにしかもう選択肢もペルソナも本当に言いたいこともないんでしょう。

人によって器用にロールプレイを切り替えていく中で、一番素直な私がもう本名ではなく人都トトに侵略されています。

私は人都トトです、脳はそういってるし間違いありません。



書きたいことを書くとやっぱり本当にそれはレシートのようで、見苦しいものです。

それでもちゃんと読んでくれたあなたはとても優しいひとです。

よければ来年もまたお付き合いください。

人都でした。たぶん





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