こんばんは、人都です。
毎日「ああどうせまた縁が無いと言われる」と思いながら、敬語で生活して鬱屈は全部VRoidで創作して発散しています。
あとは毎日ミラクルニキの周回を回して、別に飽きたわけではないですがゲーム的に拘束時間が長いウマ娘はログインすらできない。
通信料はほとんどSpotifyが奪います。
悪い思考を押し流したり考えなかったことにするためには、音楽が無ければ気が狂ってしまうので。
都内は訪れるたびに本当に全ての景色とフレームが美しいなと思います。
朝も夜も昼も、絶望的な気分で歩いていても街は本当に素晴らしい世界の形をしている。
別に私は写真趣味を名乗れるほどは、その分野に関して造詣は深くありません。
昔一度写真の知識に明るい叔母から一眼レフについて聞いたことはあったはずなのですが、特にハマりはしなくって。
でもただ写真を撮るということ自体が好きで、修学旅行とかに行った時には全く自分や友人の思い出は残さずに景色と食べたもの、そしてなぜか完食した後の皿などを電子フィルムに残していました。
多分ですね、私は写真に対して自分の記憶というよりも一過性のいずれ無くなるものを留めておくという趣味が元々あってそこからやってきている。
またここを深堀すると忘却とアイデアで形作られる自分の価値観の話をしないといけなくなりますね、読者も多分傷食してるでしょう。
話を変えましょう、Instagramが流行してからというものの物を食べる前に撮影するという一種の文化が発生しましたが、私はこれを非常に好いています。
そりゃあ食べ物は熱々出来立てが一番おいしいのでしょうし、作ったものは一心不乱に食べてほしいというのはまっとうな思考です。
だけれども、小学生的問答ではあるけれども、食べたものは無くなってしまう。
この世から完全に「料理」という形状を失って咀嚼されて排便までに体内を巡って、食べ物としての機能はそれで終わる。
私にとって数日で死ぬ蜻蛉よりも、食べ物というものは非常に儚くて、その癖大量に養分として作られてどんなに趣向を凝らしても、配膳を凝っても全ては胃の中でドロドロになる運命を避けられない。
食べ物を撮るというのはそれ自体が常に遺影です。
この世にあったラーメン、もう無いバーガー、失われて撮影者の体内に失われたスイーツの存在を証明する唯一の証。
一応厨房で働いている身だから言うけれど、安全性やクオリティに気を配っていても一つ一つの商品にまず思い入れなんてかけないし、仕事の前ではそれらはタスクの中の一つでそれらの末など知る由もない、どうせ失われるものを作る、満足を作る仕事。
ほおっておいても腐敗していき、レジンに閉じ込めてもズタズタになる食べ物は本当に儚いものです。
Instagramに上がる全ての食物は既にこの世に存在しないのに、インターネットという場所で遺影としていいねを集め続けて承認の糧になる。
写真にはそういう時代錯誤以外の意味で、魂や存在を閉じ込める効果、この世にいたことを文章以上に強く留める効果があると思っていてだからこそ写真を撮るという行動というか、概念が好きです。
写真があれば遠い数日前の食事の内容もはっきりと思い出せる、スクリーンショットがあれば数年前にチャンネルごと消えたVtuberの名前も思い出せる。
覚えていたことすらも忘れてしまうより、ずっと良い。
おやすみなさい。
0 件のコメント:
コメントを投稿