2021年5月1日土曜日

2021/5/1

 

こんばんは、人都です。
ウマ娘のガチャは相変わらず渋いです。
今日も朝からアルバイトをしていたのですが午前中に少し大きな地震があって、ガスや電気が安全装置で緊急停止したらシフトが切られてしまう可能性があったので内心ひやひやしていました。
それに朝から調理をする者の仕事はできる限りバカ忙しくなる昼に向けて多めの補充を事前に用意したり、どっとお客様が来られる前に簡単な調理を大量にストックすることですからね。
うっかり多めに焼いてるそれらがひっくり返ったら火傷的にも大損害ですから。
棚を抑えるだけに済んで良かったです。
そういえば推し団体のクラウドファンディングを本当にバイト明けて一瞬でしようとしたのですが、急に多額の引き出しをしようとしたことでキャッシュカードが止まりかけるわ、一度に振り込めるのが5000円までと発覚するわ、それを抑えるためには新規に物理カードを作るしかないわで泣く泣く10営業日の据え膳を食らう羽目になりました。
今ゴールデンウィークですけれど!?
なんなら推し団体のゴールはもう達成しておもちのびのびストレッチゴールルートなんですけど!?

正気を戻しますか、そういえば数日前に都知事の発言に由来してそれを揶揄するかのように「灯火管制」という言葉がトレンドに入っていましたね。
午後八時以降は街の明かりを街灯以外は落とし、店も閉め酒も出さずひたすら人が集まらないようにと呼びかけてそれがまるで戦時中の空襲の目標を隠すために街の明かりを消させた「灯火管制」のようだと皮肉に、そして漢字四文字のいかつい言葉が好きなオタクの言葉遊びと気紛らわしになったと。
私自身そんな一人ですからね、気持ちはすごくわかりますし私も現実の事象はとりあえず切り離したうえでその言葉の並びにはとてもカッコいいものを感じます。
そもそも私は「灯火」という言葉自体が大好きです。
揺らめく明るい炎でありながら大規模なものではなく、時にカンテラやガスの助力が無ければすぐに搔き消えてしまう、不思議と懐かしい香りと熱を持つそれはもっとも私が好むモチーフと言えるかもしれません。
基本的に私は誰かをほんのりと明るくできる人でありたくて、また製作物の中でもできる限りこの灯火を思わせるやさしい雰囲気を持たせたい。
そもそもこのブログのタイトルである「誘蛾灯日記」もその一つで、あらゆる話題にふらふらな蛾のような日々をまとめたものというのが由来です。
あと「you've got mail!」というガラケーの頃死ぬほど聞いた流暢な英語の着メロもじりでゆうがっとで、誘蛾灯なんてのもありますよ。
ネーミングは凝れば凝るほど話さなくてもモチベが上がりますから、かなり言葉遊びを含めて考える事が常です。

私はSCP財団に関連する作品の中でもハブという一つ特殊なストーリーラインの中で扱われるものを特に読み込みやすいさからも好むのですが、その中に一つ「反ミーム部門」というものがあります。
ミームというものが何であるかはインターネットに詳しければ説明するまでもないでしょう。
「イヤーッ」と聞いて忍者の声になるか、女性の叫びになるかと言うのは理解のしやすい例題ですね。
「ねこです」と記述されていれば、なぜだか次には何か言葉が足りないように思えるような。
しかしながら反ミームとは、つまりこれらの逆の物事を題材としています。
連想ゲームのように、言葉や画像から本来は結び付かないはずの意味合いが連鎖することの反転。
それは話題となる「それ自体」が特性として「それ自体」を積極的に認識を妨害する自己検閲特性ともいわれるような異常特性を持っていたり、これらを他者に付与することで害を成すという非常に性質の悪い物事のこと指します。
異常存在として中心に扱われる攻撃的な忘却とそれに忘れ去られようとも立ち向かうものの物語というわけです。
分かりにくいでしょう、無理もありません。
こいつ自体が分かりにくく出来ているしそもそもその忘却自体を意識するということ自体が難しい話ですからね。
強いていうなら反ミームはミーム以上に私たちの生活に密着している、という事は可能かもしれません。
あなたは昨晩見た夢の内容を鮮明に覚えていますか?
おとといの夕食は、さっき打ち込んだワンタイムパスワードは、晩酌用にコンビニで購入したレシートの合計金額とその釣りの総額は、さっき風呂場で思いついたはずの鼻歌交じりなメロディラインは。
いささか乱暴ではありますがつまりはそういうことかもしれません、人が扱っている情報ではあるもののいつの間にか記憶からは無意識的に不必要と判断されて勝手に切り落とされていく感覚。
異常な物語の中の脅威となるものは本当に必要な記憶もガンガン削り取る悪質なものですが、こう考えてみると反ミームという概念はミーム以上にありふれていると思いませんか。
実際今は嫌という程目の滑る情報がありとあらゆる場所にあって、何か異常な幼児教育でもされてない限りそれらは目でも脳でも認識しつつも勝手に忘れていくものだと私は思っています。
忘却という奴は救いでもありますが、無音なだけでかなり暴力的です。
だからそれを気づかせてくれた反ミーム部門の物語を私はそのストーリーの面白さ以上に、思想として間借りしています。

反ミーム部門の物語はご自身で是非読んでいただきたいのですが、もう一つ大切だと思う概念が出てくるtaleがあるのでちょっと言葉を噛み砕きつつ引用をさせていただきます。
「反ミーム部門は存在しない」というqntm氏の物語群の序盤に位置する「反ミーム入門」。
財団に入団したばかりのいわゆる新入社員にあたる青年、キム次席研究員の受難がメインとなる物語です。
そんな新人講義ですらヘトヘトな彼が簡素な昼食を一人で摂っていると、遠くから自分に向かってかなり高い位を感じる風貌の人物が寄ってきて雑談を持ちかけ始めます。
ずいぶんラフで、しかも妙に不審な質問に答えてくれないその人物と出身地や訛りについて適当に他愛もない話をしていたキムは、話しながら奇妙なことに気付きます。
数秒前に答えたはずの出身地が、自分がどこから来たのかがわからなくなる。

話すたび、認識するたび、自分をわからなくするその人物の異常性に気がついた時キムは逃げ出しました。
初日なりに原始的な方法からサイト内に備えられた何かを活用しようと奔走するものの、誰もが彼には気付かず、そして全ての物質を不気味に透過してしっとりと彼を追う人物にも声を上げず。
自分の顔は忘れたのにその位置にたしかに皮膚に付いている、持っていた内の3カ国語は思い出せない、自分に父はいない、母に育てられたから、自分に母はいない、自分は孤児だったから、そうして暴力的な忘却に記憶を食われていく、もしかしたら助けを求めても誰も気づきやしないのは既にこの世界の全てから自分自身が忘れられ始めているからではないのか。
そうして不気味で不毛な、記憶が枯れ果てるか捕まるかを争う鬼ごっこをしている内にキムは手にした端末から自分を今蝕んでいる異常が「反ミーム殺害エージェント」という、富んだ情報を持つものを進んで全ての他者の認識の外に隔離させ少しずつ、それはアルツハイマー病の早回しのように忘却させながらまるで生き血のようにその情報や記憶を啜り、そして対象が死んでしまうまでそれを継続する存在だと述べる文献を手に入れるのです。
それによれば反ミームの化身たる不明な存在と物理で交戦することは全て失敗し、接近を許せば軽やかに避けることもできず、説得や身代わり案も効かず、無理矢理メチャクチャな論理の毒のような情報を誤飲させようとしたが失敗、あとは情報量で殴りつけて腹を割ろうとしたのも、自らへ許容量以上に記憶処理材を投与しても無駄に終わり、結局その高材疾足の被害者たちによる尊い回避策はなんとか文章として残されこそしたものの全てが失敗したと。
さて、忘却の怪物はどうやって倒せばいいだろう?
一応この物語のリンクを貼っておきます、時間があれば一度ブログを離れて読んでみてください。
原文の方がホラーサスペンスとして文調も素晴らしいものですし、今日のブログの内容がこのtaleのもろネタバレになってしまいますからね。




ブログを続けましょう、その内の一つの正解が「アイデア」なのです。
記憶、知識、対処方法、操作のマニュアル、学問の詳細な言葉尻に自分を構成する周囲の人々。
それらをほとんど失ってしまった状況で彼が限界に見出した活路とは、創造的アイデアでした。
結果としてほとんどの記憶を失いながらもからがら生存した彼は助け舟を出さなかった上司に悪態をつきますが、彼女は非常に冷静に評価をしました。
アイデア…つまり本能と筋肉記憶というものは表面的な知識以上に深層的な鍛錬に由来するもので、だからこそ全ての情報を食らわれかけてでも適切な対処を思いつけたのだと。

「アイデアは死なない」、それが私が反ミーム部門の中で得た非常に好むフレーズです。
どうせ私たちは異常でもなんでもなく常に忘却という反ミームに生きている限り晒され続け、摂取した情報も噛み砕くより先に忘れていくばかりなのでしょうが、そこに反抗するのに一番具体的な力こそが深層から生み出す思いつき・発想・アイデアなのではないかと、フィクションとノンフィクションの混同ではありますがそう思うのです。
しかし思いつきというのは無心でハッピーカムカムしていたところで、まず何もインプットしていなければそもそも思いつくことが出来ません。
まぁクリエイティビティに溢れた生けるオリジナリティの化身なら無から何かを作るのでしょうが、私のような凡愚は一日ベットでごろついてもごろついた結果しかそこに残りませんからね。
情報を忘れることを恐れず飛びつくなり、無駄になる事を危惧せずに行動した上で経験や知識のパターンめいた形を意識に学習として刷り込んで、そしてある時ゆらりと脳に点火する灯りこそがアイデアになると私は考えています。
灯火というモチーフが巡り巡ってアイデアにたどり着く。
膨大な情報と経験、そして抗えない忘却による脳破壊を経由しながらそれらは気づけないほどに砕かれて濾過されつつも蒸留されて、醸成されて、いつか一つのアイデアを灯すアルコールになるかもしれない。
アイデアがあったところでそれらを全て現実に起こせやしないけれど、アイデアを失った人生は私には行き先の灯りを失うも同然。
一寸先は闇。
それを照らすのは未開拓分野の未来やものづくりへの渇望。
だからこそ生きている限り情報を摂取し血肉にしては忘れて認識を新陳代謝する事でアイデアが一番出やすい状況を維持するのです。
あるいは水の循環にも似ていると思います、雨として降り注いだ情報が山で毒を減らして河川として人の生活を横切っては潤し、最後には広大な海に同化して世間からは忘れ去られつつも確かな栄養源としてプランクトンや魚のような細々とした二次的情報を育んで、その内に蒸発してまた雲となり忘れた頃に雨として降り注ぐ、その繰り返しだと思うんです。
もしインターネットや現実に疲れて、新たな情報源に迷ったら新書のコーナーでタイトル買いをしてみたり、図書館で手当たり次第借りて電車とかで読んでみるのもおすすめですよ。
どんなにつまらなそうな分野でも、意外なところで使える知識の引き出しになったりしますからね!
そんな忘却炉、もとい忘却路と灯火のルーツに関する話でした。

この文章があなたの無意識のアイデアの火種になったらそんなに嬉しいことは他にありません。
おやすみなさい。


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