こんばんは、人都です。
毎日のノルマを設定してからというもののせっかく付けたアウトプットの癖の比率をほとんどイラストかテクスチャかゼミの内容に委ねてしまって、ほぼ日と言いながらほとんど更新のできない状態になっていました。
毎日のノルマを設定してからというもののせっかく付けたアウトプットの癖の比率をほとんどイラストかテクスチャかゼミの内容に委ねてしまって、ほぼ日と言いながらほとんど更新のできない状態になっていました。
まあ確かにあのようなことをしてからアカウントには少なくともフォロワーは100人以上増えたのですが、絵の更新をしていなければほとんどやる事なんて相互の支援かVtuberの拡散ぐらいです。
それぐらいでいい、私のパーソナルを深く知られることは失望への第一歩でしかないので。
そんな汚い只人よりも輝くバーチャルを見たほうがよっぽど美しい。
そもそもなぜか作業と生活のアカウントがVRoid用みたいになって妙に好かれていることにすらひやひやとしています、元々のコンセプト自体が鍵を付けない吐き出しの掃き溜めだったのですからあまり人に見せていい私ではないはずなのです。
私は自分でいうのもおかしな話ですが、美しいものや輝かしい何かに人よりも強く執着する自覚があります。
そしてその対象は割となんでもありで、私がときめきを感じることがただ唯一の判断基準であって、それはセンスオブワンダーと呼ぶには曖昧な目の眩みにも似た何かです。
私はほとんどの時間を誰かの人生の観客席にいるような気分に陥っています。
それはインターネットでもリアルでも、都内の360°のシアターよりもさらに鮮明な観劇を見ているようなものです。
私はその時々でペンライトを降ったり、名前を叫んで跳ねてみたり、その様子を書き留めたりしているかもしれませんがそこには大きな壇上への隔絶というものが存在します。
アニメーションは2次元でバーチャルは2.5次元で、私のいるここは3次元ですけれど決して、例えば生きている世界が永遠に歩けば太平洋に出られたとしても…そこにはいくつものラインというものが引かれている。
ここから先は踏み込んではいけない、勇気を出して飛び入り参加をして、また苦笑いで苗字で呼ばれ大人の対応をされるぐらいなら透明な観客になった方がまだいい。
美しさに執着するからこそ、自分でそれらを作れているときにのみ私は自分を肯定することができます。
その時だけは私も舞台で、いや額縁に足を取られながらも誰かの美しさを二次創作でもなんでも一応は認めていただくことができる。
それは対外的な承認欲求というよりかは自己肯定感の依存症のようなもので例えば大して反応がなかったり、そもそも投稿していない絵でもとりあえず満足が出来たならそこでドラッグのように数時間の安堵を得ることができるのです。
美しさや眩さ、ときめきと煌めきと全力の一瞬を燃料にして時代遅れのディーゼルのように、創作意欲の奴隷として人生を上位存在の操演に例える陰謀論の様に、生かされている気もします。
平凡なキャラクターの枕詞のように使われる「いつも元気で優しい」は結局色々な特殊な素性の者たちを慰める一つの技術で、とても一般の技能ではないことに年齢を重ねれば重ねるほどに気付きます。
私がいつもそれになろうとしても結局重ねるのは嘘と虚勢とおどけた仕草ばかりで、だけれど本当の素を出すよりはずっとマシだからとこれがやめられない。
ミソシタのように闇を受け入れて闇と共に生きる程に肝は座らず、にゃるらのように苦しみインターネットに生きながらも今までの特異な感情を作品に転化して発表できるほどの技術は無い。
むしろ闇に生きていることをずっと否定したい、健康的で明るく誰かの為に何かを出来る当たり前であるはずの人格になりたいのに不意をついて心配と自分への嘘とお前じゃないが交錯して、あまり飲みたくないものを喉にざらざらとする他に自分で自分に耐えられない中途半端な爆弾のまま。
私は正常であることに縋って、だけれど実力が無ければギャグをすることでしか人の目が引けないことも知っていて、常識人にも狂人にも完全になりきれないまま口裏合わせのコウモリの童話の様に何かよくわからない取り繕った三文で大根の一人芝居を続けている。
本当は主役になりたい、みんなみたいに踊ったり輝いたり舞台の上の世界でキラキラと手を繋いでみたかった。
過ぎた、諦めた、自分から降りてしまった、本当に低俗でどうしようもなくて身の程知らずな夢だと知っていて終わる手段を試したり自分で自分の頭をクソ殴る程嫌いでもそれでも最後の手段を選べないぐらいの想像力はつきある程度身内を思いやる年頃になって、終わらないまま進めないままずっとフワフワとして誰の邪魔にもなりたくないだろと人と距離をとりながら無様にも生きようとしている。
あぁ、本当に世界は全部美しいですね、私は人生の許せない何人かを除いてその全てを愛しています、それは薄い感情でしょうが汚なさと穢らわしさに塗れた私の最後の防衛ラインの様な純粋さです。
これだけは虚勢でない様に何年もかけて私に擦り込んでいます、自己暗示と言ってしまえばそれまでです。
自分を騙さなければ私はただの社会不適合者ですから、出来るだけ綺麗なふりをしていたいのです、嫌われない様に社会の濁流を清流であると思い込むための振り付けを覚えたいんです。
おやすみなさい。
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