こんばんは、人都です。
知識には解像度というものがあるのはずっと前から基礎として当たり前に言っているような話ですが、もしかしたら普通じゃない言葉遣いだったのではないかと思いそのことを書こうと思います。
私は良く知らないジャンルのことを解像度が低いと表現し、逆にある程度知識がありチョットワカルことはそれが高いと表現をします。
イメージとしては適当な保存形式でとっておいた風景写真はぱっと見なら誤魔化せても、寄れば寄るほど粗が見えてくるといった感覚に近いです。
基本的に解像度は高ければ高いほどミルクボーイなものだと思うのですが、ただしこれは当事者的な情報になると逆に他人からはどうでもいいような細部の修正に力を入れ過ぎてしまうといった欠点が知識の盤面でも言えるものなのですね。
情報の認識度が荒すぎるとリテラシーや冷静さを疑われかねず、そしてあまりにそれが細かすぎると力を入れていることは実際そんなに伝わらなくなってしまう。
例えば私は土偶に関しては国宝指定の五種の暗唱からある程度の著名な出土物の遺跡地や展示場を把握している程度に解像度が高いのですが、そのせいでクトゥルフ神話TRPGのサプリメントに載っていたように呪いの道具として利用される土偶を見ると少しなんでだろうと思ってしまうわけです。
呪いの道具だとか宇宙人だとかはコンテンツとしては良しとしても、基本的に土偶は身体の不都合を肩代わりするための形代として丹念に製作された後で部位を壊されているというのが有名な説で、他の説でも多くは鎮魂や豊穣などあまりマイナスなイメージは持たない物に思えているからです、縄文時代はそもそも大きな争いごともなかったという説もありますしね。
しかしながらそんな縄文特化オタクの考証を実際にシナリオライターが知っとけとは毛ほども思わず、それがアフリカ寄りの不気味なnkondiみたいな役割を果たすならそれは効果的なモチーフに十二分になり得るわけですよ。
この世に全知全能の神がいたとして、なら私の近所の寂れた町中華屋の当たりメニューも分かっちゃうの?なんて茶化すことがありますが、全知というものが本当にあるとすればそれは全ての世界のつぶさな砂粒に恐ろしく高い解像度を持っているのでしょうかと笑いごとにしているだけのジョークです。
東大王だろうと政治家だろうとコメンテーターだろうと中野を古典的な出で立ちで回る戦士であろうと、それぞれにはローカルかつ内輪であれどうであれ異様に解像度の高い分野があるのだろうし他人から見ればアホなの?というような部分のピクセルが足りなかったりするのでしょう、それは当然のことで生きている限り全ての者がそうであるはずです。
私は音楽のことや3Dの技術屋の話と一般男子のことは本当にちんぷんかんぷんですが、その分インターネットで知らないそれらの話を聞くのはとても楽しいです、話を振られてもあやふやの呼吸付け焼刃のごまかしが発動するので聞き役に徹するのが平和に楽しい。
ウマ娘をはじめとした擬人化系ゲームも無知から解像度を上げるきっかけになる教材みたいな強みはありますからついついやりたくなってしまう。
過去は艦船に一切興味が無かった私は、女学院なのに修学旅行で海軍基地博物館に行って一人だけロマンで最高になってしまうみたいな奇怪な解像度の上げ幅を楽しんでいましたよ。
当時の規約的に艦これが出来なかった分、怒られることもない艦船関連の書籍を買い漁ってついでに日本海軍知識がモリモリになっていたりしていました。
にわか根性と好奇心も当然あるのでしょうが、知らないこと・新しいことを知るというのはそれだけで本当に楽しい。
だから音楽番組にはヒットチャート以外を流してほしくなるし、お笑いの番組は毎週お笑い荘とかあらびき団でもいいぐらいで、Twitterでも急に突然の誰も聞いてないような高解像度のトークをしたりすごくマニアックな話でnoteを書いたりする人はとても好感を持てます。
自己啓発にも、明日の生活にも一切役に立たないような高解像度の話というのは極めたオタクではないとしてもちょっと記憶違いがあったとしても、意味がないからこそその垂れ流しには決してイキリには該当しないと思いますよ、強いていうならインターネットで突然失礼な素人質問を投げかけてくる懸念はどうしてもありますけれどね。
人生死んだら記憶はまず残らないんですから、なら生きてて意識がはっきりしてるうちに知らない荒い偏見を少しでも多く鮮明にしたいなというのが私のやわやわ生存の理念みたいな感じです。
おやすみなさい。
0 件のコメント:
コメントを投稿