2021年8月31日火曜日

2021/8/31

 

こんばんは、人都です。

怪談レストランのエンディングテーマには空耳で「神の味噌汁」と歌われていた一節があります。
まぁ、本来の意味は神のみぞ知るなのですが、幼い頃のアニメの曲を歌詞を見て確認しようとすると、とてもテーマ性が強かったりむしろ内容が子供向けではなかったりしてびっくりすることがありますよね。

夢の為に現実を捨てて 現実の為に夢を捨てて 手に入れたのは孤独か? それとも愛する人との別れか?
そういうところであのエンディングテーマはホラー性を別ベクトルに発揮していたことを知ったのは、大学受験をしていた時です。

私達は、と書くと主語が大きそうなので前提としてまず私は夢追い人を羨ましいと感じ眩しいと感じます、そしてささやかな妬ましさを振りかけていて。
インターネットでいくら暴れ狂おうとしても所詮は声の綱の中でピチピチする小魚でしかなく、リアルはただのプログラマー駆け出しになるはずで、そこに夢や希望といった要素は微塵もありません。
だからこそ、こんなにインターネットが溢れかえって5秒でノーダメージから発信者になれるような世界において現実へと夢のために繰り出せる力を持つ人は尊くて、あまりに眩しすぎてちょっと卑屈にもなってしまいます。
現実というものは恐ろしく、羞恥心からのタスクキルも出来なければ咄嗟の発言を削除も出来ず、何より出生ガチャと鍛錬による容姿やスキルや声がごまかしも効かずに白日に晒される訳で。
それでもただのモブならどうせ誰の記憶にも残らないという意味で悲しい安全が保障されるものの、あえて人の前に舞台をはじめとして自分を見せるように夢と現実へ踏み出して行くことは非常にハイリスクで相応の妥協も要るようなものでしょう。
面白い人生を演じたいと思いながらインターネットと自宅から出られないワナビーの私には不可能な行為。

曲がりなりにもコロナ禍を経てデジタルのつながりやバーチャルの評価、テレビ番組のリモート化や誰もが感じていた対面の面倒さが表出するようになったニューノーマルの世界で、それでも人の前に出ていこうとするのは当然なんらかの覚悟や信念が必要になってくるのでしょう。
一つだけ現実でバーチャルやデジタルに絶対に勝る要素があるとするなら、それは温かみとか質感のようなぼんやりとしたような感情とは別に、人の視線をその一瞬自分のみに集めることが出来るということでしょうか。
当然これは自論かつ暴論ですが、デジタルのデータや付き合いというものはユーザーの並列化や次に好まれそうな動画のサジェストなどでいつでも見ているものを取りやめて別の味のする面白さを探せる訳で、これはライブ配信であろうと変わらないしSNSのタイムラインなら何時間もかけたような絵が一瞬で流れて消費されてしまうような感覚です。
インターネットに居残る限り、常に私は無意識的に比較をされ続けて選ばれるまで光らないでしょうしどんな手の込んだ衣装を作ってもboothの商品新着欄に埋もれて行くだけでしょう。

ただ現実の舞台は違う、特別ルーズなものは別として箱という空間と時間の限られた中でその瞬間の聴衆にとってそれがどんな駄作で珍作で名作に限らずに、スポットライトを浴びる中で自分だけを世界の主人公のようにすら思わせることが出来る。
その分のプレッシャーで脚が震えて、台本の記憶領域が白くなったとしてもその瞬間だけは全ての時間を自分のものにできることは変わらず、どれだけ失敗したとしてもタスクキルもスキップもない現実は自分のものになる。
なんて崇高で純粋なんだ、こんな時代でどんなに波乱があったとしてもその世界にはネットより現実を取った主人公で満ちている空間がある、ああいうものを本当に光って言うんじゃないだろうか、英語でも言うでしょうスターって。

本当の光というものは夢も現実も矛盾させずに捨てないで、どちらも保ち輝かせるのでしょうね。
どちらかを捨てることでしか選べない、矛盾や違いを許せなくてどちらも選択出来ない私はそんな人がとても憧れで、ちょっとだけ僻んでて、そして心から大好きで、それはけして何があっても変わりなどしない事です。


おやすみなさい。

2021年8月30日月曜日

2021/8/30

 

こんばんは、人都です。

私はかなり具体的に好んでいるパーツやモチーフがある方で、現実に使うものや創作のモチーフまで多くの場に灯やカンテラのモチーフを持ち出します。
広く言えば照明器具や燃料、細かく言えば電灯よりもアルコールなどで燃焼しながらあたりを照らすランプが大好きなのですね。

この趣向がどこから来ているのだろうと考えると、それは親のアウトドア趣味及びキャンプの経験からではないかなと思っています。
スマホなんてないガラケーの世界で、予約した旨をプリントした紙束を持って川沿いや海沿いやハチャメチャの山中に生活用品ごちゃ混ぜの車で向かって二泊ぐらいしていくのが、私が大学に上がるまでに長期休暇におけるしょっちゅうのルーティンでした。

しかも親は本格派志向なので、本当に整備されたところには中々行かずにそれこそ崩落事故をおこしそうなギシギシする木組みのアスレチックや整備されているとは言いにくい谷底の遊び川などがある剥きだした場所を好んでいたように感じます。
さすがに今は身内も歳を経て、昔ほど弾丸で車の日本旅行とかをすることは無くなってしまいましたが。

ああ、それで私のカンテラへの好意はそんな野生的な宿泊の中で育まれていました。
本当に真っ暗な森のテントの中、エアーを入れ込むベットの不自然な柔らかさで上手に寝付けない中、大人たちが晩酌を楽しんでいて、まだ大きなバーベキューセットの炭火がぱちぱち音を立て焼いていて。
そして不自然な空気の静けさに矛盾する、都会住みにはよくわからない声のする虫の合唱とガスをごおと燃やしながら蛾を集めるキャンプ用の大きな金属製のカンテラ。

それが本当に明るくて暖かくて、だけれどこんな枯れ葉の山奥で支えの棒が転倒したらどうなるのかと杞憂なもしもを考えるとどこか怖くて。
キャンプ場に限らず家ではないどこかで一晩を超すことはこの歳になってもどこか不思議な気持ちがあって、目が覚めて見回してそこが本棚まみれの部屋でないことに気づくとここが家ではないことをふわふわと恐ろしく感じるのですね。
おかしな話に聞こえますが、私には外泊するともう生という意味で目を覚ますことが出来ない気がする極端な不安と違和感の壁というものがあって、それを程よく整えられた寝具により眠気でなし崩しにするように眠りへ陥いります。

だからこそなんでしょうか、無機的なのに有機的な矛盾したガス性のカンテラに夜を灯された思い出からか私はああいった燃焼を伴う照明がモチーフとしてとても好きなのです。
灯止とうとも忘却炉も誘蛾灯日記も、各種ソシャゲに使用しているユーザー名からリヴリーのネーミングに至るまで全てそれらに関連した興味と憧れから来ているものです。
SCPでも特に酩酊街ものは大好きですよ、ふわりとアルコールの香る忘れられたものの行きつく世界の話。
部屋の照明器具は大きなシーリング以外では傘の部分の大きいけれど照らせる範囲は限られた読書用のものを設置しています。
大好きな現代美術家は宮島達男さんです、有機的で無機的でアナログかつ一定に揺れ行くものを照らして表現する作品は個展を訪れるたびに私の時間を幸せに失わせます。

有名な怪談に死神の名付け親というものがあります。
私は童話として認識していましたが落語の方が著名なそうですね、あと米津玄師。
死神と組んで医者を始めた男が金に目をくらませて理を壊す延命を行なって、その後にある洞窟へと案内をされるとそこには無数の寿命を燃料に蝋を少しづつ蝕み灯すろうそくがいくつも存在していたと。
私の大好きなあの子の名前の由来になった、要は永遠のない物質化された命の灯を理通りに止める因果応報の話なのですが。
これはオカルトと現実とフィクションの混同で、バカげた話ですが私はこの話のように、人の命もこの寓話のようにどこかにあるろうそくを燃やして世界を少しだけ明るくしていつかは残りかすを垂らして消えるものなのだと思っている節があります。
それは古典的なろうそくに限らず、街灯や誘蛾灯や白熱灯、裸の電球にきらびやかに刹那なネオンや寿命の恐ろしく長いLEDなんかのいろいろな明かりの形があると思っていて、それならば私の命はガス灯の金属製のキャンプ向けカンテラであってほしい。
ガスは缶の後処理は面倒ですが、明かりという形のない結果を残して跡形もなく消えてしまうというロマンもある。
落語や舞台に再演はあれど同じ舞台は一つもないですが、似たように命は再点灯されず一度も戻れずにただ燃やしている。
だからこそ生きていく中で無為に何も残らないという事を恐れたりロマンを感じたりしながら、少しでも一瞬でも何かを明るく灯せるように生きていきたい。
煙と煤を吐きながら長々と縮じこますぐらいなら、一瞬でもごおっと夜を照らして一夜の不安を忘れられる熱を与える強い光になって、生き急いだ後には気づけない程のいない空気になってしまいたい。
だから、そんな理想と思想で私は灯火とカンテラのモチーフが好きです。

おやすみなさい。

2021年8月29日日曜日

2021/8/29

 

こんばんは、人都です。
はじめてピュアニスタというゲームに課金をしました。
今日は朝からバイトをちょっと頑張ったからとレモンサワーを飲んだら、急にまともな線画が描けなくなって結局ベットに入ってマインクラフトの壮大な動画ばかりを見ていました。

急に思い出の話をしますが、私はリニューアルをする前のナンジャタウンがとても心に残っています。
そんなに回数を訪れたわけではなく、また池袋なんて親なしで簡単に行けるような場所でも無かったので他のプラネタリウムとか科学館と同列かそれ以下の印象でいいんじゃないかと思うのですが、どうも記憶がぼんやりとしていて更に確証がないせいで過度に美化をされているような気はしないでもないのですけれど。
私にとってナンジャタウンという遊園地であり不気味な街は何となく私の重要な構成要素の一つになっているような気がしています。
一応写真に残っていないかと確認をしようとしましたが、漁れど漁れど出てくるのは本気で幼いころの私なので埒が明かなくて断念しました。

当時のナンジャタウンの異常なポイントは何と言っても情緒不安定すら思わせるほどの世界観の大渋滞、そして通路に張り巡らされた小ネタと進路によってはホラーコンセプトを絶対通過しなければいけない形式にあったと思っています。
特にもののけ番外地及びゴースト13番街の話です。
これは今の良くなったところで過去の悪いところでもあったのでしょうが、基本的に年齢すべてにおいて本当に各種の容赦がなく、ホラーが苦手な人向けの配慮とか子供連れで通りやすい動線とかのような繊細な物を一切考えてない、よく言えば製作者の信念剥き出しの遊園地であるという感情を私はナンジャタウンに持っていました。
最近の流行として季節もののシナリオライター付きの劇団のような本当に容赦のないお化け屋敷がありますが、あれらは当然ホラーを摂取したくない人の前には現れることは無いでしょう。
逆に割と万人向けや対応のコンプラを考えたホラーは、そもそも少なくなっていると思います、それはニコニコ動画のホラー特集ページのような。
インターネットは自分で摂取するほとんど全てを選べるものですが、つまりは自分が嫌いな物は見る必要なんてないですよね。

あんな形をした施設はクレームとか泣きの案件が高頻度で起こっていたんじゃ思うことがあります。
ただでさえ当時は階層も多く、また細い道や意図的に暗いエリアも多くて入り組んでいるから迷子なんて起こったら親も子供もトラウマものだったんじゃないかと。
そもそも普通の遊園地のような楽しさが分かりやすいメリーゴーランドよりも、よく考えると先進的にすら思えるミッション式のウォークスルーや探索がメインとなるものが多かった気がして、そもそもの話いががわしくない意味で大人向けの遊園地だったのではと感じますね。
まあ普通の遊園地にアイスとかギョウザをメインに売るエリアなんて無いですから。
私が特に思い出深いアトラクションは「ボムレンジャー」という実際の通路に張り巡らされた幽霊入りの爆弾を上手くボタンを押して対処していくというものなのですが、あれもなかなか攻めていたと思いますよ。
そもそも失敗するとヘッドホンから爆発音がなる上に、必須エリアとして親御も友達も分からなくなる全面鏡張りの道やほぼ運の暗所ミッションを避けるという選択も一切なく科されましたからね。
そりゃ普通の遊園地のようなスタンスで楽しむには渋すぎますって、今の私なら通ってでも行きたいぐらいですけれど。
まあ今は無いアトラクションの話なのでそんなことは叶いません。
ナンジャタウンは今ではほとんど違う、もっと扱いやすい感じのアトラクションになって物々しかったエリアはその存在すらもかなりの部分を失いました。
そして多くのブログサイトの大元が消えた今では記憶を補強可能な材料は少なくて、よくyoutubeに上げられているあの頃のナンジャタウンを歩くだけの動画をぼんやりと眺めています。

トラウマというのは本当に困ったもので、一撃で人生を歪める暴力的なものです。
人格のある他人からの悪意によるものは本当に恐ろしく、今でも私に若干の恐怖の常識を教えている気がしますが、人格のないものから受けた衝撃、あるいはトラウマはカルチャーショックといいなおすべきなのでしょうか。
少なくとも私は今でもあの頃のなんだか恐ろしくて、なのに惹きつけるふしぎな理解不能の暗部を持ったわかりにくいころのナンジャタウンを夢に見てしまいます。

おやすみなさい。

2021年8月28日土曜日

2021/8/28

 

こんにちは、人都です。
就活が終わって、卒論をちまちま書きながらアルバイトにいそしみ、資格試験の勉強をしたりしています。
朝はいささか遅くなっている気がします。
あとはマギアレコードの対人戦ばかりをしている。
この夏休みは私にとっては学生生活最後なのですが、状況は結局コロナ禍でうかつに東京に行くことは止められている現状です。
ただ先日自衛隊経由でワクチンの一回目は終わらせました。

残念ながら、私は恐らく人よりも嫉妬の感情が強く、それと同じぐらい自分を劣等感で見ています。
本当ならインターネットには一番向いていないという自覚があります。
ひとかけの情報を全て根拠のないひらめきでつなぎ合わせて、勝手に落ち込むようなことをする人間が情報収集を趣味にするのは不利益すぎる。
だけれども、本も好きですが現実で刻々と過ぎていく人肌のリアルの暴力的な魅力に結局はハマっているせいでインターネットが止められない。

政治的やポルノとスパムは容赦なくブロックが出来るのに、本当に嫌いな人をブロックすることが出来ない。
それはその人の作品自体は好いていたり、余計なことを言い出して信者に囲われていないかと睨んでしまうことが理由でそういった物の多くは全く関係のないアカウントのブックマークに隔離をしています。
たまに信者にみせかけた厄介入りのマシュマロでも送ってしまおうかと考えて、あまりに無様な自分に失望してそんなことは結局一度も出来ないで。
私は全くもってインターネットも下手くそですし、Twitterに依存していながらそれを扱うことに慣れているとは言えないと思います。

私は人に何を求めているのか、自分でもよくわかっていないまま人を勝手に仕分けているような気がしてそういう思考回路も嫌っています。
怪盗クイーンのとあるキャラクターに人を人として見ずに、敵か味方かのみで判別する敵がいましたが少なくともそのような思考回路がインターネットをしているときの私にはある。
しかしながら、いい年齢でありながら今更自分に甘い言葉だけをかけてくれる奴だけとずぶずぶするような要介護のような思想はごめんだ!というひねくれもある。
でも一時期試したように思想が合わないけれど世間的に人格者とされる奴に学びを乞おうと迎合してみたら自意識と交通事故を起こしてレールのように精神がひしゃげたので、インターネットで誰かに完全に乗っ取られるのもそれはそれで出来なくて。
信用している人にいろいろ話した後にこれは依存ではないかと恐ろしくなって、何も言えずに極端に連絡を取らなくなったり。
本当に一番やりやすいコミュニケーションは結局リアルでの顔と顔を見た対話で、それは表出しないからこそ心の内なんて考える必要が無くて、失敗してもおどけるぐらいのジョークと三枚目の技術は実はあったりして。

バーチャルの配信者でなくても、最近はバーチャルの一般人も増えていて多分最近増えたようなフォロワーの多くはそういう、私が毎日の空を撮るためカメラを起動するようにVRCやclusterを立ち上げるようなポリゴンで集まって構成される人なんでしょう。
私は致命的にバーチャル世界でのコミュニケーションが実はなによりも苦手です。
今では世間はVketの6でフォロワー同士が学生が予定も定めずにわけもなくららぽーとやソラマチでも回るみたいに遊んでいるけれど、本当に言い訳を付けてinしてないだけで表情がよくわからない世界で知らない声が飛び出してくるのが怖いだけで。
そもそもお砂糖という文化が私は恐ろしく苦手なのでVRCはたぶん絶対だめです、事故ってしまう、インターネットの恋愛はマジで目にも入れるのもちょっときついです。

ドン引きされそうな程そういう仕事の親父のより強い今のパソコンなら常識的な範疇でほとんどのVRなコンテンツは出来るはずなのですが、知らない世界を歩き回って迷子になりたければ私は現実で適当な駅で降りますし、家から出たくなければゆめにっきを起動します。
そこそこのお値段と性能がほぼ腐ってしまった気がします。
曲がりなりにも絵を描いてるよりVRoidの服を作ってる方が評価されるのに、とんだ機会の損失でしょう。
そういう集会とかコミュニティとか脳の血管が破裂しそうで、なんだか強いお酒をたくさん入れて言い訳が許されでもしないと無理ですが、酔っぱらいは世間の悪なので絶対に無理。
ビジネス書と賢いnoteは私をヒールで蹴り飛ばして固定ツイートを見ろと言うでしょう。
時代に乗れているようで、本当に時代遅れなせいでインターネット上の交流はいつまでもヒヤヒヤとするままです。
適当な商店街で初対面のばあちゃんに会計ついでに会話を振る時みたいなことは、ここではなかなかに難しいしそれをしてリプライが帰ってこなかったときは反省会を開いています。
こんなにもちぐはぐなのにインターネットが止められない、この原動力はやっぱり依存なのでしょうか。

そうだとすればひどく情けないと感じます。
依存を心のどこかで軽蔑しているのに、結局私もそうならば逃げ場なんてどこにも無くなる気がします。
久しぶりのブログなのに弱弱しすぎる。
それでは、おやすみなさい。