こんばんは、人都です。
怪談レストランのエンディングテーマには空耳で「神の味噌汁」と歌われていた一節があります。
まぁ、本来の意味は神のみぞ知るなのですが、幼い頃のアニメの曲を歌詞を見て確認しようとすると、とてもテーマ性が強かったりむしろ内容が子供向けではなかったりしてびっくりすることがありますよね。
「夢の為に現実を捨てて 現実の為に夢を捨てて 手に入れたのは孤独か? それとも愛する人との別れか?」
そういうところであのエンディングテーマはホラー性を別ベクトルに発揮していたことを知ったのは、大学受験をしていた時です。
私達は、と書くと主語が大きそうなので前提としてまず私は夢追い人を羨ましいと感じ眩しいと感じます、そしてささやかな妬ましさを振りかけていて。
インターネットでいくら暴れ狂おうとしても所詮は声の綱の中でピチピチする小魚でしかなく、リアルはただのプログラマー駆け出しになるはずで、そこに夢や希望といった要素は微塵もありません。
だからこそ、こんなにインターネットが溢れかえって5秒でノーダメージから発信者になれるような世界において現実へと夢のために繰り出せる力を持つ人は尊くて、あまりに眩しすぎてちょっと卑屈にもなってしまいます。
現実というものは恐ろしく、羞恥心からのタスクキルも出来なければ咄嗟の発言を削除も出来ず、何より出生ガチャと鍛錬による容姿やスキルや声がごまかしも効かずに白日に晒される訳で。
それでもただのモブならどうせ誰の記憶にも残らないという意味で悲しい安全が保障されるものの、あえて人の前に舞台をはじめとして自分を見せるように夢と現実へ踏み出して行くことは非常にハイリスクで相応の妥協も要るようなものでしょう。
面白い人生を演じたいと思いながらインターネットと自宅から出られないワナビーの私には不可能な行為。
曲がりなりにもコロナ禍を経てデジタルのつながりやバーチャルの評価、テレビ番組のリモート化や誰もが感じていた対面の面倒さが表出するようになったニューノーマルの世界で、それでも人の前に出ていこうとするのは当然なんらかの覚悟や信念が必要になってくるのでしょう。
一つだけ現実でバーチャルやデジタルに絶対に勝る要素があるとするなら、それは温かみとか質感のようなぼんやりとしたような感情とは別に、人の視線をその一瞬自分のみに集めることが出来るということでしょうか。
当然これは自論かつ暴論ですが、デジタルのデータや付き合いというものはユーザーの並列化や次に好まれそうな動画のサジェストなどでいつでも見ているものを取りやめて別の味のする面白さを探せる訳で、これはライブ配信であろうと変わらないしSNSのタイムラインなら何時間もかけたような絵が一瞬で流れて消費されてしまうような感覚です。
インターネットに居残る限り、常に私は無意識的に比較をされ続けて選ばれるまで光らないでしょうしどんな手の込んだ衣装を作ってもboothの商品新着欄に埋もれて行くだけでしょう。
ただ現実の舞台は違う、特別ルーズなものは別として箱という空間と時間の限られた中でその瞬間の聴衆にとってそれがどんな駄作で珍作で名作に限らずに、スポットライトを浴びる中で自分だけを世界の主人公のようにすら思わせることが出来る。
その分のプレッシャーで脚が震えて、台本の記憶領域が白くなったとしてもその瞬間だけは全ての時間を自分のものにできることは変わらず、どれだけ失敗したとしてもタスクキルもスキップもない現実は自分のものになる。
なんて崇高で純粋なんだ、こんな時代でどんなに波乱があったとしてもその世界にはネットより現実を取った主人公で満ちている空間がある、ああいうものを本当に光って言うんじゃないだろうか、英語でも言うでしょうスターって。
本当の光というものは夢も現実も矛盾させずに捨てないで、どちらも保ち輝かせるのでしょうね。
どちらかを捨てることでしか選べない、矛盾や違いを許せなくてどちらも選択出来ない私はそんな人がとても憧れで、ちょっとだけ僻んでて、そして心から大好きで、それはけして何があっても変わりなどしない事です。
おやすみなさい。
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