こんばんは、人都です。
最近はピグワールドの色々な世界を巡っては恐らくは年下の、仲のいい知らない誰かたちを傍聴することを趣味としています。
それ以外はただただ働いているのですが、今はVRoidの服のメインプラットフォームであるboothでいつものクレカが使えないので購買欲求が満たせないままに何となく貯金の額は増えています。
秋から冬にかけては本当に起きることが辛いですね、部屋が北向きでもうそろそろベッドに湧くダニ虫を恐れなくてはなりません。
昼ご飯を食べるのは面倒でただコンビニの辛いチキンを何度も食べています。
そしてぼーっと鬼滅のアニメを見ながら強いレモンサワーを飲んでいました。
私の見たい映画というのは優柔不断なままに結局上映が終わるので、サブスクとかこういう手段以外で見ることはほとんどありません。
最近母親がボーイズグループにハマってイキイキとしたはじめてのオタク活動をしていますが、私は何度も同じ音楽がリビングルームで流されることもあって若干うんざりとしてきています。
「無力感」というものは私が生きてきた中で何度も向き合ってきた、透明でありながらも最悪の問題です。
それはとてもきっちりというのなら学習性無力感として言い換えられ、何をやっても現状も減少も好影響どころかその波長に触れることすらままならぬ、やるせなさとどうしようもなさへの漠然とした首を絞めるには足りない絶望として幼いころから隣人として着席をしていました。
今放映されているお受験物のドラマ「二月の勝者」では大量の宿題に飽き飽きとした子どもがカンニングを行なって、実力面での成績を落としていたことに対してあえて正解を取りやすくすることで成功体験を植えさせて不正のないやる気をよみがえらせるという展開がありました。
無限に増えていく代り映えのしない、どうせ解けないことを自覚する為だけの苦行よりも目の前の娯楽でインスタントな達成感を味わいたいという欲求を、基礎問題の反復で代替させることで無駄なく自己肯定感と無力感の解消を行なった、という考察を私はしています。
なるほど、確かにやったところで誰にも褒めてもらえない内職のような努力よりは誰かに対してボタンを押しただけで美少女に褒められて報酬をもらえるソーシャルゲームは無力感の解消には向いていますね。
何度も何度も困難に晒されてなにくそ負けないぞと思えるのは、基本的に運動部でメンタルを鍛えた人財か少年漫画の登場人物で、普通なら完全に諦めなどしなくともだんだんと妥協と折衷の方法を覚えてしなやかに背骨を曲げていくのが普通の挙動ではないかと思います。
世界はスカッとジャパンでもなければ突破ファイルでもないのだから、特に秀でていなければ搾取というものは続きその繰り返しの挙動は時間の経過以外の要因で解決などされることがない。
基本的に社会問題や環境問題のような壮大なリアルの物語をなぞる時、その結びの展開に決まって使われるのは僕ら一人一人の努力が大きな一歩になる!というような夢と希望にあふれた希望的観測です。
そもそもの政治的な選挙や音楽の重要な指標となったbillboard、ジェンダーや価値観のアップデートの中で年々強い意味を持つ署名サイトやクラウドファンディングサイト。
意外にも調べると「君の何かで世界は変えられる!」という呼びかけは審議を別にして溢れているからして、たとえ自分に価値が無いのだと悲嘆に暮れてもそれらのコミュニティを覗けばむしろ新参として拍手で迎えられるまでもの可能性がある。
それでも私は回される職務が全て汚れた部類ならただただ無力さに暮れてしまうし、助けようと声をかけるか迷った物が静かにうつ病の色のままネットの海へと溶けて動かなくなっていくときには感情の行く先を自責に向ける以外に無くなってしまう。
私は決して無能でも無個性ではないと叫び、私はあなたの気持ちを少しでも楽にしたかったと後悔する、無力感。
そもそも地球上にブルゾンちえみの調べ方でも男だけでも35億もいるような吐き気の催すオープンワールド、それぞれに個人情報ならまだしもキャラクター設定や存在理由にギフテッドを作り上げるなんてどんな一次創作狂いでもネタ切れは起こすに違いがない。
何か個性あるキャラクターを作り上げるときに使いやすいテクニックとしてあるのはキャラクターのイメージカラーの組み合わせの定義と彼ら/彼女らの欲望及び最も大切にしている物の定義になってくるものの、あれだけ感情が過剰なふりをしておいて私が本当に大事なものは自分の命と身内の安寧ぐらいしかない。
多分世界で自分が主人公であると自覚する人々はこの地点がもう少し崇高であったり、決してくすんだりしない自分だけの色を精神に携えたりするのでしょう。
私には少し余裕がある時も地球を守ったり世界を平和になんてできる気はせず、強いていうならTwitterのフォロワーさんと推しが心穏やかに笑顔で生活できることを祈る程度のもの。
有形でない祈りには当然質量もなければ、祈ったという事を証明できる事実も一つだってなく日々が過ぎれば忘れてしまう、そんな枯れ葉のような色だけが目に映えるだけの生きていない責任から逃れたカラカラの欲。
それでも無力感を多量に自覚しながらも自分から求めたり、報われたいと思うのは誰かの幸せと努力の結晶への正当な評価ぐらいな物で、主人公ではない透明でコモンで無力な自分を有能で優秀できれいな誰かの支えになれていると無責任に思い込むぐらいでしか無力感を誤魔化すことなどできそうもないのです。
生きている価値なんて壮大なものが道端の命にあるわけはないでしょう、それでも誰かのエンドロールに紛れ込める小さな文字の思い出されない記憶になりたいと思うことは何も為せない私のくだらない夢なんですね。
誰かの都合に合わせて生きていく、多分人って基本的にそういうのが大多数で私もその中で満員電車のエキストラをする、それだけの透明です。
許してください。
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