こんばんは、人都です。
とはいってもその名前の付いたアカウントを今日爆破しました。
人都もひとどめもです。
理由は何か悪いことをされたわけでもなく、突然に精神の中でここ最近で最悪レベルの対処できない不安がすべてを占めてしまったことによる余計な弱音を吐かせないための対処です。
確かに労働はつらいけれど、それは大した理由ではありません。
ぶどう糖もクエン酸も肉も何もかもが無力な、世界のすべてが自分のせいで迷惑していると感じる瞬間の絶望で全てをメチャクチャにしそうになったのですね。
大切な物を壊した後にはっと正気になって、頭を抱えるのは部屋の中の物理的な破壊行為でも人間関係でも耐えられない、なら可能性を全て安全装置のように切り落として私が正気になるまで待つべきだと私は思った。
私は青春の多くの時間をネットの中で過ごして、それと同時に私の本性が擁護できないほどに弱弱しいことにも年を経れば経るほどに成長せず、その足りなさをただ増していきました。
実は原因もなく、それでいて恐らくに共感性が他人より高いせいで簡単に誘爆してしまう困った気性は本当はいつもなら正しく処方された錠剤で何とかしていたのですが、ここのところそれらを切らしたことが恐らく今の精神状態の要因です。
しかしながらネット生活が長くまた他人に影響されやすいと「病み」それ自体が全体範囲を射程とする毒となることも自覚が出来ている。
だからそういう時、誰も攻撃をせずにこの不安と絶望と不信と加害感が早く去ってくれと願うとき私は神様の存在を信じて祈るほかに無くなります。
スピリチュアル、陰謀、オカルト、エーテル。
存在それ自体がぼやけていて、感化されたあれそれは存在しても質量のない笑い飛ばせそうなそれにすがるのは、それがくだらないエンタメと知っていて…本当に誰も傷付けないためには脳内の中の光みたいなものを信じるしかない、手段を全て無くして万策が尽きて、それでも何か手を尽くさないと無努力で吐きそうになるそんな時に神様という定型文は便利なものです。
何もできない無力感、それの多くは共感によって第三者的に感知してしまった侵害や破壊の気配に強く存在しているからこそ、宗教という奴は西暦前からデジタルな今までに一度も絶えずに存在してしまうのでしょう、人が思考してしまう限り。
人は自分の責任だとか過去だとかを全て投げ出して、春風の布団ぐらい大きくて暖かく輝いたままに包み込んで枕を濡らすものを拭ってくれる無責任な人権のない存在を求める。
しかしこれが脳内の光と私だけの孤独な空間ではなくて、形のないものへの経済性を間に置いた搾取がちらついてしまうから宗教だとか祈りは胡散臭いと呼ばれるのだと思います。
この世はどれだけの努力と環境の整備を以てしても、必ず乱数的というか究極のアナログの揺らぎからなる運や今まで人生の舞台に一度も現れてきていない今更の新キャラといったどうしようもない要素であっけなくデコピンぐらい簡単にはじけ飛んで、台無しという結果を引き起こします。
この世に過程から結果が収められたデジタルの結果以外でまず100%は存在はしなくて、努力やちまちまとした交渉でそれらをどうにかやっとの思いで80%に寄せていくのが失敗せずに生きていくモデルケースであるのではと考えてもいるぐらい。
だから常に基本的には人間は誰しもが不安です、杞憂ほどの派手な発狂を伴わなくても手持ち道具の忘れやUSBメモリの破損、祖父の残された寿命のように一瞬の不可逆的な損失で全ての計画が壊れることに誰もが怯える、その震えを少しでも止めるために色々な技術と発明がある。
そういった不安が全ての対策と予防線を追い越して心と認識を乗っ取って体を痙攣させたり、赤子のはじめてから犯罪予備軍のような粗暴な言葉までを嘔吐のように声帯を乗っ取って発語させようとする、そういう症状がある。
自傷的な衝動が少ない代わりに、その怒りやままならなさを他者に向けてしまう可能性が少なからずあるからとにかく自分を狂的に見せながらもきちんと首輪をつけて時折絞めてやらないといけない。
寂しい時に寂しいと言い、苦しい時に苦しいと言って人を対応に困らせた経験は私にもあるけれど、正直回答が帰ってきて即効薬のように気性が収まるわけでもなければ、私の変な面を見た人はリプライの対応を明らかに困らせてしまう、めんどくさいやつとも思われて有効度も下がっているかも。
それならいなくなってしまいたい。
今にじさんじがVtuberのオーディションでもしていたら一般社会人の内定持ちなのに申し込んでやろうかと思う程に、私を投げ出してしまうことに抵抗がないぐらいどうしようもない。
私がいることで誰かの感情を過度に動かすこと自体に嫌悪感があって、そんな狸の皮算用から逃げている。
存在しない神様にこの不安を誰も傷付けないままに取り去って、そして推しに全て幸せをと思う気持ちだけでようやく吸って吐くことを取り戻すみたいに。
人の幸せを望み、いいねも押しづらい悲惨さに対して祈る何の質量も証明の効かないことばかりを繰り返して思いつめた先で得た助言は「お前は暇だから他人を心配することで満足を得ようとする」というどうしようもない真実でした。
やらなければならないことはたくさんあって、毎日いくつもそれらを片付けつつ追われて無様に走っている中で誰かの不幸に心を痛めて助かってほしいと思うのも恐らくは私の深層心理では足りない自信を埋めるための一部のパーツなのかと、最悪の気分ですね。
誰かを大好きという感情すら自分の為に使うなら、本当に嫌になる。
ちゃんと生活をしていて、働いていて、みんなを尊重して言われた通りにやって、誰も傷付けないように、誰にも迷惑させないようにやっているはずなのに、私がいることで結局誰かを消費して頑張らせるなら私はいらない、そんなことさせたいわけじゃない、幸せを祈ることだけがもう私にしかできないと思ってもみんなは不幸になるだけ、なにも。
どうして誰も幸せにできないんでしょう、才能も努力も無く暴力をにらみつけるだけの本当に無害だけど無益なまま、せめて幸せは無理でも少しでも不幸を減らしたい。
ごめんなさい、無理なんです、何もできない。
私なんてどうでもいいから、承認欲求でもなんとかアピールって呼んでもいいから幸せを祈っています。
おやすみなさい。