こんばんは、人都です。
ブログ更新は久々ですね。
忙しすぎて最近は文字打ちはゼミの資料作成と選考用の資料書きで、いくら文字を打つのが好きでもスタミナ的に無理な日が続いたためです。
ウマ娘もう一切開かなくなってしまいましたね。
最近、弱音を吐くこと自体が苦手になってきました。
人の弱みを何となく握って曖昧に笑うインターネットが嫌で、できるだけ頑張って明るく生きている内に上手に気持ちを表せなくなってきました。
無感情というわけではありません、私はオタクなのでコンテンツが進展すれば嬉しいし、クリエイターが悲しそうだと私も悲しいです。
ただ、私の場合はそれらの対外的なものによって引き起こされる感情があまりにもすべてになりすぎて、私から染み出すインクみたいな黒いものは上手に記述がままならないのですね。
しかしながら、面倒なことに人は出力しなくても勝手に感情や痛みを持ちます。
言わなければ気づかれないし、誰も不幸になんてさせないし、疎まれることもないけれど毎日訳が分からないぐらい全身が痛くなったり腰が限界になったり夢と現実が曖昧な幻覚が見えたりしています。
最近こんな状況で思うことは本当に全ての人類に平等なのは、死ではなくて痛みなのではないかという事です。
そもそも死が平等であったとしてもその前には人それぞれの痛みがあるはずなのですが、インターネット的にはゼロイチの生命の有無しか見ないので歪だとは思うのですよね。
痛みって何より苦しいですから。
神経が過敏に引き起こす、筋肉が異常な動作をして体の中身が歪んで軋む。
それは肉体がある限りほとんどの存在にとっては平等で、誰一人として逃げようがなく、誰でも痛いものは痛い。
感情を増幅するガスがあったとして、それが新宿や神田に撒かれたらもしかして叫ばれる言葉は苦しみや憎しみ以上に体の痛みになるのではないのかと思うのですよ。
就活中もストッキングとヒールの下に訳が分からないレベルの手負いを複数個所しましたが、恐る恐る身内に相談してもみんな通る道なのと笑われて、そんなものかと感じながら化膿止めを塗りこみました。
みんながみんな痛みを訴えずに、どんなに傷を負っても健康ですって平気な顔をして生きていて、それが社会の普通でむしろ痛みを叫ぶことは子供のすることとみなされて。
でも確かに私はインターネットで体の痛みを訴えてフォロワーに辛かったねと囲われる女が心底嫌いで、でも私も痛いものは痛くて、自分の理念からしてもそんなことは言えないから何か鎮痛の話題とコンテンツを漁って。
何となくいった深夜病院では症状が軽すぎると気休めの市販製品をもらっただけで、もう病院なんかにはかかるものかと思ってもいます。
生きてるって本当に痛いことばかりで、嫌になっちゃいますね?
おやすみなさい。
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