こんばんは、人都です。
永遠に腰が痛いです。
マヤノとうまぴょいしました、これで9人目かな?
今日は大学に書類を取りに行って、スケジューリングを合わせつつ面接の対策をしたりして過ごしました。
朝が遅いと何となく損をした気分になります。
朝はパンで昼はペペロンチーノ、夜は中華丼を食べました。
母親がチョコミントのペーストを買ってきてパンに塗っていたのですが、ミントの味配分がチョコレートに対して大きすぎて、チョコミント党の私でも味見をして正気を疑いました。
あとVRoidのサンダルは大方終わったのですが、途中でグラデーションマップを使った色褪せ版を作りたくなって差分を増産しています。
今日は星野源と新垣結衣が結婚をした日になりました。
星野源の曲は本当に好きです。
ファーストコンタクトは聖☆お兄さんのブッダの声優で、受験期に飽きるほど聞いていました。
未だに自分の人生にエンディングテーマをかけるなら2013年にリリースされた「ギャグ」という曲にしたいなと思いながら生活をやっています。
星野源がサブカルに通じた人物であることは、オタク内では割と有名な話です。
「夢の外へ」はゆめにっきをモチーフとしたことはWikipediaにも出展付きで記述されています。
とても明るくて、化粧品のCMにもなっていたような曲で「この世は光」とも歌うけどこれもゆめから来ているというのは不思議な感覚ですね。
最近のツイートの中で「オタクのイメソンの中でまず名が挙がる鬼束ちひろだったり米津玄師だったりは歌詞に時代背景が絡むことが少なく、具体的な文明の利器が絡んでこないままとにかく人から人への思いを綴るからからファンタジーから少年物まで幅広く一曲で妄想をこなせる」みたいな言質を見た気がしますが、それを言うのならとにかく星野源は普遍的な詩で「行動」を歌うことが多いと、ふと思いました。
いや、想いのことも歌うのですがとにかくよく動く気がするんです、もしくは続く時を詩にしているか、いやただの気のせいかもしれません。
日々は続くし、今を踊るし、ちびちび前進んでは、歌声もまだ続く。
星野源がかつて大病を患っていたことも有名ですから、そこにも何か由来はあるのかもしれません。
あんまりファンのような面構えは出来ません、持っているのはTSUTAYAで借りて古びたWalkmanに入れたデータのみですしライブに行ったわけでもなく、曲の良さ以外は別に何も知りません。
私は芸能人に関心を抱いたり直感的に好きになることはあっても、あまりファンにはならないようで俳優でも全部は追えないし、なんか一般よりは詳しいかもぐらいの知識で留まります。
根本的に距離が近かろうと遠かろうと無関心、人として認識するというかそういう力が極端に欠如している。
むしろインターネットとか文字化された者の方が得意です、対人に不得手というわけでもなく普通に対話は好きなんですが多分メモしないとすぐ耳に入れた情報を分別ごみにします。
というか、認識の外で今も現実の人が存在してるって感覚が極端に薄いから、だからライブ文化の厚いバーチャルや逐一びっくりするほど練られたキャラクターたちが右往左往するTwitterを好んでいるのかもしれません。
全部他人事にしか思えないから、自分の人生が誰かの人生に介入することも想像できないしそもそも私なんて誰も見えない幽霊だろうぐらいのスタンスで生きています。
「あたしはゆうれい」なので、あなたには見えるはずもない。
これは米津玄師ですけど。
星野源の結婚もどこか大きな他人事で別に嘘であれとは思わないけど、実感がない。
生放送で結婚放送がされたら実感をするんでしょうか、それともこれからの楽曲に「動く」家族の形が出てきたとき?
夏の終わりに車内クーラーを感じながらがたがたに残った宿題を解いているとき、ぼーっと見ていた24時間テレビのマラソンみたいに、自分がword書類を作るちょうど同じ間に星野源と新垣結衣がシャッターに照らされて、言葉に詰まったりしたときにはじめて星野源が結婚したことを知るのかもしれません。
おんなじタイムラインの中で、台本のない世界で何かが分岐したことを知るのかも。
どうせ人間として星野源がどうなっても興味度はそんなに高くはないですけど。
Twitter絵師の日常はぜひ流して!と喜んでふぁぼを送るのに、アーティストや芸能人になるとまるで興味が無くなるのって、何か名前が付いた現象ではないんですか?
そんな感じです、どんな?
製作に時間を使うとブログの文が薄くなりますが許してください。
もう寝ます、おやすみ。
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