こんにちは、人都です。
空の写真を撮り忘れました。
ウマ娘はタキオンなら安定的にうまぴょいをさせることが出来るようになりました。
今日はWEB講座とWEB説明会に出席し、数日後に迫った初めての対面面接の対策をしようとするものの呻いていました。
最近は祈りのメールに留まらず、説明会のお誘いから広告までメールという存在を受け取る度に叫びたくなります、たまに家で殺してくれと叫びます。
そんな精神でまともに散歩の出来ない日でも、筋トレや腹筋やヨガをするといくらか心はましになります。
毎日目の前が誇張なく暗転するほど不安です、症状で調べれば病人です、だけれどそんな言葉に甘えるのは私の嫌いな人に似ていてできる限りしたくはない、私は正常だ。
朝はコーントースト、昼はうどんを排水溝へ流して落ち込みながらお茶漬けを食べて夜はハヤシライスを食べました。
食事に関わる悲しみは、取り返しのつかない失敗の次に心を破壊します。
今日は才能の話をします、とりあえず努力や修業とは切り離して、天性のセンスや座学では習得できない感受性のようなものとして読んでください。
正直私もあまり「才能」という言葉にはインターネットトラウマ経験から使わないようにはしていますが、思うことが無いわけではありません
私には、作家になりたかった時期がありました。
絵を描くことも好きでしたが、それ以上に漫画を描くという事が自分の性格と合っていないこともうすうす感じていてそれでも文字で構成された物語なら作れるという気がしていました。
だけれども中学と高校の時代に文学部の復興に携わってからというものの、自分がものづくりで何者かになるよりも人をサポートする仕事の方がましな成績を出せるということが何となくわかって、大学デビューで軽くもがいたもののそれすらも沈み、社会の縁の下へと落ちていくことと相成りました。
後輩のロシア文学と村上春樹が好きな、素人目からしても表現自体が輝きを持ちそして耳目を惹きつける文筆の天才たる真の文学少女と出会ったことがその分岐です。
彼女の物語の流れ自体を鮮明に思い出すのにはもう時間は経ちすぎてしまいましたが、その日受けた衝撃だけは今の心にも残っています。
あまり口が回る方でもなく、部員のかき集めに際してイラストの描けないノベル趣向のオタクが集うようになった文学部の中でも特別サブカルチャーに強いわけでもなく、ただ課題だけはしっかりと中身を伴わせてこなし、教室の端で静かに新書と海外小説を読む三つ編みの細い今どき珍しいほどの清楚な二年違う後輩でした。
その年の差の違いと、大学に入った後のバイトのペースの関係でOGのタイミングも失って、結局彼女の作品を見たり、編纂した回数はそんなに多くはありませんでした。
それでも彼女のことを忘れられず、あの眩い夕方みたいな文字にはもう出会えないのかとふんわりとした懐古に駆られることがあります。
私はどうやら自分で作品を作るよりも、校正作業や部誌の編纂、また部活自体の広報作業や古典作品にまつわる都内旅行のプランニング、あとは展示の部屋を効果的に作る見立てとか、そういった事務的なことの方が圧倒的に得意である事を知り、それをすることで美しい文を書く雑務をさせたくはない若き才を更に美しく見せる手立てを知ったのでした。
彼女にはどうかその筆跡を残せるように、言葉の世界で生きていて欲しいものです。
才能は世界に溢れ、それ以上に恐らく言葉遊びの意味合いを除いても本当にありふれています。
世界は当たり前で溢れていて、形あるものから不定形の決まり事・そして思想に至るまですべての物が何らかで作成された既製品で、そしてその既製品の一番最初に位置するものを恐らく人はクリエイターと呼んで、これこそは才能だと支持するのでしょう。
しかしながら別にそれが源泉でなくとも、オリジナリティにあふれるはじまりにならない過程でもきっとその分野が望まぬとも自分にとって特別な得意であると自覚するものもいます、鮮やかではない川底から銀座に流通させる指輪となる砂金を一粒救うためにドブにまみれるさわやかな汚れ仕事の方がいい成績が残せるという認めたくもない自覚。
指輪を贈りあうアベックは別にその金がどこから流れてきたのかなどは知らなくていい、ただ目の前の思い人か価値を持つ輝きを眺めていれば、それでよい。
輝いてこの世にまたとない美しさを作れる、ときに自分よりも若い才能たちを丁寧に支える仕事がしたかった。
そんな気持ちを持っていたけれど、出版社には結局全て蹴られてしまいました。
別にそんなこともなく、私の諦めに似た自覚すらもどうやら勘違いであったらしい、あはは。
縁の下の力持ちなんて言葉は人間力とかワークライフバランスとかぐらい就職活動では常に使われるようなことわざでしょうが、きっとこの世にはそんな人が多すぎて就活以降では標準装備過ぎて評価の言葉にもならないし、社会のシステムで何かの鮮やかな才を送るパレードの車輪にしかなれない。
そんなことを享受して、結局誰でもスタートを切れるタイプの、専攻分野でも得意分野でもない研修制度の充実を謳う企業様を訪問し続けるほかにない。
才能というひかりはまぶしい、この世の何よりも明るく無二です。
どうか、そのひかりには生き続けてほしい、自惚れたってかまわないから。
言葉選びと事務ぐらいしか長けなかった私のドブ味みたいなものよりも、ずっときれいで替えが効かないものだからどうか平凡を踏んででも輝いて欲しいと本気で思うのです。
誰もが主人公に生まれてなんてこれないのだから。
明日も朝は早いので寝ます。
おやすみなさい。
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