2021年4月23日金曜日

2021/4/23

 

こんばんは、人都です。
今日もバイトのシフトや書類を出して、面接を受けたらいつの間にか一日は終わりました。
少しだけウマを模索して、後は悪思考防止の動物パズル。
ここ最近最後に必ずブログを書いているせいやもしれないのですが、毎日の終わりが異様に早いのです。
このブログはさしずめ今日という日の感想ペーパーのようなもので、出すことで今日をやっていましたよという出席証明書のような存在になっています。
他にも30秒ドローイングや空を撮る習慣も同じカテゴリの行動です。
真面目とかではなくこういった物と言うのは出さないと、その瞬間は気楽でもその後に蓄積する状態異常のように最悪の絶望残尿感のようなものが脳を占めて、そのまま首まで締まりそうになるので書いているんです、世の中にナイトルーティーンをこんなにも汚く表す奴はそうそういないでしょうね。

私は個人的な興味で今「ビオトープ管理士」という資格を取るために勉強をしているのですが、その参考書の中で興味深い一文があったので今日の語りのネタにしようと思います。

『「物語」は危険』
ビオトープと言うのはドイツ語で「野生動物の生息空間」という意味で、そこで重要になってくるのはまず生物多様性と言われるそこにある生態の尊重を優先する考え方だと語られることが多いです。
そこでわざわざ前書きとして使われた言葉がこの「物語」への警鐘なのですが、これがつまりどういう思想なのかといえば、別に小説やストーリーへのアンチというわけではなく「見出しの危険性」を説いている一文なのです。
現象や結果から何らかを感じて見出して、人が勝手に感動的かつ悲劇を含む魅力的な物語を作る。
オタク的な語彙を使うなら「文脈」とでも言いましょうか。

別に自然環境や人との関わり合いの中でストーリーを見出すことは素晴らしい感性でしょうし、私もときたまにそういうことはします。
ただしそれらはあくまで私の頭の中の世界で完結する世界での物語で、むしろインスパイアされた事も絶対に言わないタイプのくだらないフィクションです。
ただ、もしこれがノンフィクションになってしまうと非常にまずい。
自然はイメージこそ与えますが無口なものですから、人から与えられたイメージに抵抗などできるはずもなく、受け取る他にはない。
もっと言ってしまえば、人間では無い生命体に人の法も思想も何も関係などなく、その種はただそこでいるだけ/生きているだけで完全に私たちとは全く関わり合いなどない。
だからこそ後付けでそこにはありとあらゆる設定を付けることが可能で、語られない空白をフリー素材にすることが平気で許されるのです。

そういった不定形で思考を持たない生命を扱うときに、空想の世界に入ってしまうとどうしてもそこにはよこしまな気持ちが混ざる可能性があるからこそ、この資格を取る上で物語の危険性を自覚しておく必要があるというわけです。
よこしま、といっても別にアブノーマルとか尖った危険思想な訳ではなく、例えば固有種にかわいい!というだけで極端な種に偏る守る行動を行えば食物連鎖の破綻やその固有種の増加による他種の破壊行為が行われる可能性があるので、その推し贔屓のような事は大きい目で見る保全の上では推奨されないという事なのですね。
単なるかわいいという感情も、使い方を間違えると厄介な事を引き起こしかねない。
物語とは少し違いますが、絶滅危惧種であるパンダの保護を人の手を入れて進んで行った結果、周辺地域でドールやオオカミの数が著しく減少した事例は有名ですね。
理由として餌となりうる動物を過剰保護した為に大型の肉食動物が割りを食ってしまったというのが、一つの導かれた仮説としてあるのです。

ただこういったノンフィクションの自然物語は、メディアの中では本当に魅力的に映る特性でもあるかのようにドキュメンタリーの題材として扱われる事も多く、わざと固有種を不憫に描いたりもっとデカければ地球温暖化にまでも物語を絡め、さも人を救世主のように描くようなものすらあるのですね。
映像としては美しいことは当然ですし、だからといってその美しい映像をずっと垂れ流している訳にはいかないという建前もあるでしょうからそこにはどうしようもなく、どうしても製作者側の自然への解釈や切り口が見えてくるものでしょう。
そして見たものに感動を与え、自然への関心を促進し…時にその製作者側のレンズをそのまま自分の物語としてしまい新たな偏愛の感染者を生み出してしまうという、避けられない罪もある。
正直この手口は自然系に限らず非常に魅力かつ有用なので、例えば基金の募りであったり、署名を集める際のキャンペーンにまず同情から始めて終着は愛にスライドさせるように応用される事もあります。
具体例のソースを出すとわたしがしばかれるので架空の例ということにしてください。
それに自然や生態系への愛自体はわたしにもありますし、蠢く小さな大量系の虫には今でもウワッとなるのは変わらずに、他にもクラゲの絵本を読んで飼育法を調べるほど惹かれていたような時期もあります。

もっと言ってしまえば、擬人化系のコンテンツというのはもとより存在した結果や歴史から見出された物語に美少女やイケメンの形で間借りしたようなものが多いはずなので、まんま危惧されるべきノンフィクションの見出しの物語と言っても過言では無いかもしれません。
刀だって船だって国だってウマだって、ただそこにあっただけの結果や概念から性格や物語を勝手に見出されているだけで本来そこにあるのは過去の累積物だけで、人格は無い。
そういう事を考えたのはシナリオライターやプロジェクトに関わる偉い人であって、そのもの自体には本来何者の意思も存在しないはずなのです。
これは怒られる人には怒られそうですが、ライスシャワーもサイレンススズカも別にその個体が悲哀を伴っている訳ではなく、ただレースで多くの栄光と鮮烈な不幸を患ってしまったが為に存在が物語になってしまっただけなはずだとは考えたことはありませんか。
どうせ生命はみんな生きて死ぬのに、それがあまりにも突然で衝撃的でそれを見ていた人々が色んな感情や疑念や後悔を交錯させたが為に、悲劇の文脈を偶然背負うことになってしまったようなもので。
断っておきますが、わたしはウマ娘のことが好きだし競馬知識に関しては素人以下です。
それにお姉さまをやってるし、モルモットくんもやっています。
擬人化コンテンツは人並み以上に愛好してきましたし、自分でも擬人化ばかりをしています。

でもこんな風に資格勉強をする身でチラッとこの好むもの達を見てみると、そこにあるものがあまりにもノンフィクションを誇張した文脈の物語ばかりで、我ながらもうちょっと完全フィクションの物語を触れておくべきだろとつっこみたくもなるのです。
ノンフィクションは本当に麻薬で、結局どんなに二次元趣味でも実在の面白さには惹かれてしまうし思い込めばそれを誰も否定はしないから、どんどん好きになってしまう。
そのことによって今まで知りもしなかったジャンルの知識や新しい視野の獲得、新しい物語を楽しむことができるのは当然否定はしませんし、実際募金活動や由来する現実コンテンツへの支援を行うこともありました。
実利は基本的には人を助けますし、支援の気持ちが裏目に出るということは不測の事態がない限りはまずありません。
ですが、時にはそれらが実は単なる無口な結果や観測、統計の累積から成る創作物である事は出来るだけ忘れないようにしておこうというという決意が、今後も擬人化コンテンツを楽しむ上で持っておいて損はないのでは無いかと感じます。
無辜の怪物というものはいつだってだいたい結果から創作された身勝手なフィクションがノンフィクション化して起こってしまうものですからね。
妙に技巧があり感情を持つ生命体である人の思い込みってやつは、集まれば集まるほどすごく怖い結果を生む事だってありますよ。

人は感情があるので、生殖本能とはまた別に割と適当に愛をする生き物です。
いつでも偏った愛は多分愛ではなく、誰かなにかを傷つけるだけの暴力になりかねません。
そのくせ愛というのは身勝手で弁論や説得さえうまければ、全てに対して言い訳として運用することが出来てしまう禁止カードでもある。

なんらかの大きな管理というのははじめるきっかけならともかく、そういった愛や感情に揺らぐわけにはいかない分野なのですね。
でも人は管理されるよりは自由を求めて破壊を行うのでしょうし、例え理路整然としたデータや由来があったとしても時に今回だけは!という例外を求めてしまうことがある。
もしこの世がなんらかのRPGでちょうど担当する場所が大切な物語のキーアイテムに関していれば、管理士なんて仕事は大体堅物でだけれども主人公達になんらかの形で倒されて文脈を救い出す為にその場にあるべき秩序は破壊されるでしょうね。
この世は多分フィクションでは無いので、人の行動の関わらない現象の観察は本当に無人格でそこにはなんの感情的な理由もなく、ただそうあるべきであっただろうという因果にあたる要因と少しの生活環境的な外部干渉によって構成されています。
全てのものに理由はあっても本来物語なんてない。
それを忘れたらいけないんだと思います。

もう眠いのでオチもなく寝ます。
おやすみなさい。

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