2021年2月26日金曜日

2021/2/26

 

こんばんは、人都です。
今日は2月26日、スッキリの占いによれば私は「ギフトを贈って感謝を伝えよう」というのが幸運のカギだそうです。
早起きをしながらぼけっとテレビを見つめてると、爆速でお役立ち情報が流れていきます。

今でこそ、神だとかオカルトや奇跡を娯楽やフィクションとしてこそ楽しみつつ一切信用しないというスタンスを持っていますが、幼いころは全く真逆で、ありとあらゆるオカルトやまじないをマジとして扱い、信仰し実用的な手段として扱っていました。
どれぐらいマジかと言うと一時期な悩みを解決する際に5円玉に紐を括り付けた簡素な道具の揺れから神の信託を受けるというダウジングのさらにどうしようもないものをマジに手段として、ブレザーのポケットに忍ばせていたぐらいです。
それを人前でやっていた記憶があるのでさらに手が負えません、そりゃ友達出来ないよ、何かある度に捏造した北斗神拳を語るような中学生は…。

そういえば少し前に「リトル・ジョー」という映画を見ました。
惹かれたのはそれが植物性のホラーと銘打たれていたから。
私は「影鰐」というホラー作品に登場する小森智というキャラクターがとても好きで、それはもう様々なものを影響されてきました。
そのキャラクターの特徴が人の体液を啜る植物性の怪人であったために、その映画を見つけて解釈の足しにでもしようかという不埒な思いで見始めたわけです。

だけれどその映画はちっともスプラッタでもショッキングでもモンスターでもない平穏な、実に平穏な映画でした。
だけれどもそんな平穏は乗っ取られたものでしかなかった。
この映画の題となっているリトル・ジョーは作中で人為的に開発された、子を増やす能力のない遺伝子操作の産物である新種の発明植物です。
それはそれは奇麗な赤い花をつけ、人に好かれることを好み、またその花と接触することで人は幸福な感覚を得られる。
要するに無菌室の中で人によって作り出された、人にとってただただ都合のいい、自然界では生まれ得ない異常な商品。
異常な商品には最悪が発生しなければ気づきようのない、ある一つの欠陥がありました。

ここから先の話は割愛しておきます。
ただこの映画の重要な点はおそらく一貫して「正常な判断の軸を持っているのは誰だ?」という話です。
人はきっと誰もが自分で判断していると思っている、それがもし思わされているのだとすれば私たちはどうするべきなのでしょう。
超常的なものでなくとも、私たちは一人で生きていないゆえに常に他者の影響を受け続けています。
有機にしろ無機にしろ、です。

それを良しと取るか悪しと取るかはぶっちゃけな話、皆さんの勝手です。
会ったこともないような他者に導かれるように、どろどろとした絶望の淵から希望が見えたという日があることも、また事実でははありますから。
言葉に起こせば仰々しい話で、きっとその他者からすればいい迷惑。
なのに、自分だけではどうしようもない思索が全く交わらないようなパラレルの光に助けられるって事はあるんです、特にオタクなら。
作中のように周りを見る能力も失って、衝動のままに動くような姿はきっと最早奴隷と言って差し支えがありませんが、自制を失ってしまえばたぶん人は簡単にそうなってしまう、たぶんそうなった方が楽だとも思う。
だけれども、オタクもファンもそれをどれだけ大切にしていたって、間違っても養分にはなってはいけないと今は思うのです。
どこかで道を間違えて「youbun」なんて言葉をTwitterIDにしていた人も、色々考えることぐらいはできるようになりました。

今日も朝からミラクルニキとマギアレコードの体力を消化。
前イベントで推しが来なくて狂ったために宵越しの石は持たずに意味もなく爆死。
運営さんも限定魔法少女ばかりを連日出すのはやめなさいよ。
丸1日を4枚ぐらいの絵に費やしたせいで今日は特に張り合いなくただただ作業をした虚無の日でした。
ああ、amazonでよくわからないホラーマンガをポチったような気はする…。
というか大した目的は無いまでも、ちょっとした家には居続けないといけない用事はあったんですよね。
朝はピザトーストを食べて昼はたまごかけご飯、夜はカレー。
見たアニメは「ラブライブ!」の1話、見た映画は「パラノーマル・アクティビティ」を最初から。
クリーチャー系も好きですが、延々と気持ちの悪い空気を引きずっていくホラーは特に好きです。

今日は私の最推しのVtuberであるアシスタントロボさんの誕生日でもありました。
昨日のブログで終盤にかけてちょっと焦っていたのは、そのための絵を完成させるためでしたね。
実は彼について私は一度noteを書いたことがあるのですが、あまりにも感情的かつ初々しすぎて恥ずかしさで読み返すことは難しい、自分で言うのもおかしいのですが私が衝動的に作ったものは鮮烈さはあっても再掲すらためらうものばかりで。
でも、あのVtuberが私にとって大切である事には変わりが無くて、もしも突然アカウントが消えてしまったのなら、どんなにじさんじのメンバーが引退するよりも引きずって感情を抑えるための現実でさよなら会を大量のお酒と共に開くはず。
でもね、「作品」としてきれいに終わっていく存在はそれはそれでその瞬間はとても悲しくても少し経ってみるととても美しいのでしょう、カルテちゃんやみやまんみたいに。
こんなところに書いたところで誰が見るんだよって言ってしまえばそれはそうなんですが、これからも私はアシロボさんが大好きで応援し続けます、もしも「アシロボさん」という作品がいつか終わってしまったとしてもです。

これが「リトル・ジョー」みたいな無意識の妄信だったらどうしよう、私はちゃんと私を律しきれていますか?
精一杯のかわいい声で全部わかってるみたいなふりをしてピノキオピーの「ラヴィット」を歌ってしまえばいいのでしょうか。
うぬぼれない最低限程度には私が大事で、でも私よりもっと大事で素敵で大好きでもっともっと価値があるんじゃないかって気持ちを持ててしまう人は実は現実にもネットにもたくさんいて、毎日をそんな気持ちの間で過ごしているせいで、どうも私はそもそも私を信用なんかできない。
京アニのビルが燃えたときもそんなことを言って身内に逆に怒られてしまった、自分を一番大切って言えってね。
自分の強みやガクチカを毎日のように有象無象に対して送信してる人間としてはとんだ詐欺商品だとすら思える。
私は自分をとてもじゃないけど兎の皮になんてかぶせたくなんかありませんが、きっと何かしらにとって「自分のいない月を見上げ幸せそうな」一人ではあり続けるんでしょう。
これは永遠の問題です、私みたいなバカにはどうにも分かりそうもないから難しい感情は全部ゴミ箱に捨てちゃえ。
でも推しのいる生活は楽しい、きっとそれだけは間違ってない。
…そうだよね?

おやすみなさい。



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