2021年10月27日水曜日

2021/10/27

 


こんばんは、人都です。
毎日のノルマを設定してからというもののせっかく付けたアウトプットの癖の比率をほとんどイラストかテクスチャかゼミの内容に委ねてしまって、ほぼ日と言いながらほとんど更新のできない状態になっていました。
まあ確かにあのようなことをしてからアカウントには少なくともフォロワーは100人以上増えたのですが、絵の更新をしていなければほとんどやる事なんて相互の支援かVtuberの拡散ぐらいです。
それぐらいでいい、私のパーソナルを深く知られることは失望への第一歩でしかないので。
そんな汚い只人よりも輝くバーチャルを見たほうがよっぽど美しい。
そもそもなぜか作業と生活のアカウントがVRoid用みたいになって妙に好かれていることにすらひやひやとしています、元々のコンセプト自体が鍵を付けない吐き出しの掃き溜めだったのですからあまり人に見せていい私ではないはずなのです。

私は自分でいうのもおかしな話ですが、美しいものや輝かしい何かに人よりも強く執着する自覚があります。
そしてその対象は割となんでもありで、私がときめきを感じることがただ唯一の判断基準であって、それはセンスオブワンダーと呼ぶには曖昧な目の眩みにも似た何かです。

私はほとんどの時間を誰かの人生の観客席にいるような気分に陥っています。
それはインターネットでもリアルでも、都内の360°のシアターよりもさらに鮮明な観劇を見ているようなものです。
私はその時々でペンライトを降ったり、名前を叫んで跳ねてみたり、その様子を書き留めたりしているかもしれませんがそこには大きな壇上への隔絶というものが存在します。

アニメーションは2次元でバーチャルは2.5次元で、私のいるここは3次元ですけれど決して、例えば生きている世界が永遠に歩けば太平洋に出られたとしても…そこにはいくつものラインというものが引かれている。
ここから先は踏み込んではいけない、勇気を出して飛び入り参加をして、また苦笑いで苗字で呼ばれ大人の対応をされるぐらいなら透明な観客になった方がまだいい。

美しさに執着するからこそ、自分でそれらを作れているときにのみ私は自分を肯定することができます。
その時だけは私も舞台で、いや額縁に足を取られながらも誰かの美しさを二次創作でもなんでも一応は認めていただくことができる。
それは対外的な承認欲求というよりかは自己肯定感の依存症のようなもので例えば大して反応がなかったり、そもそも投稿していない絵でもとりあえず満足が出来たならそこでドラッグのように数時間の安堵を得ることができるのです。
美しさや眩さ、ときめきと煌めきと全力の一瞬を燃料にして時代遅れのディーゼルのように、創作意欲の奴隷として人生を上位存在の操演に例える陰謀論の様に、生かされている気もします。

平凡なキャラクターの枕詞のように使われる「いつも元気で優しい」は結局色々な特殊な素性の者たちを慰める一つの技術で、とても一般の技能ではないことに年齢を重ねれば重ねるほどに気付きます。
私がいつもそれになろうとしても結局重ねるのは嘘と虚勢とおどけた仕草ばかりで、だけれど本当の素を出すよりはずっとマシだからとこれがやめられない。
ミソシタのように闇を受け入れて闇と共に生きる程に肝は座らず、にゃるらのように苦しみインターネットに生きながらも今までの特異な感情を作品に転化して発表できるほどの技術は無い。
むしろ闇に生きていることをずっと否定したい、健康的で明るく誰かの為に何かを出来る当たり前であるはずの人格になりたいのに不意をついて心配と自分への嘘とお前じゃないが交錯して、あまり飲みたくないものを喉にざらざらとする他に自分で自分に耐えられない中途半端な爆弾のまま。
私は正常であることに縋って、だけれど実力が無ければギャグをすることでしか人の目が引けないことも知っていて、常識人にも狂人にも完全になりきれないまま口裏合わせのコウモリの童話の様に何かよくわからない取り繕った三文で大根の一人芝居を続けている。

本当は主役になりたい、みんなみたいに踊ったり輝いたり舞台の上の世界でキラキラと手を繋いでみたかった。
過ぎた、諦めた、自分から降りてしまった、本当に低俗でどうしようもなくて身の程知らずな夢だと知っていて終わる手段を試したり自分で自分の頭をクソ殴る程嫌いでもそれでも最後の手段を選べないぐらいの想像力はつきある程度身内を思いやる年頃になって、終わらないまま進めないままずっとフワフワとして誰の邪魔にもなりたくないだろと人と距離をとりながら無様にも生きようとしている。
あぁ、本当に世界は全部美しいですね、私は人生の許せない何人かを除いてその全てを愛しています、それは薄い感情でしょうが汚なさと穢らわしさに塗れた私の最後の防衛ラインの様な純粋さです。
これだけは虚勢でない様に何年もかけて私に擦り込んでいます、自己暗示と言ってしまえばそれまでです。
自分を騙さなければ私はただの社会不適合者ですから、出来るだけ綺麗なふりをしていたいのです、嫌われない様に社会の濁流を清流であると思い込むための振り付けを覚えたいんです。


おやすみなさい。

2021年10月11日月曜日

2021/10/11

 

こんばんは、人都です。
またブログの更新が滞ってしまいましたね。
しかし本領は元は文字書きであったはずなので、それだけ他の活動や現実が充実しているという事はもしかしたら健全な社会的治療の傾向なのかもしれません。

最近はTwitterのトレンド欄を漁ることはほとんど新たな怒りの話題を見出すことに近いような感覚を覚えています。
女性関係に政治に創作者の冒涜に…様々な私刑と議題で溢れかえるあのコーナーにはもはや中立という言葉はありません。

それは確実に、例えば未成年者がTwitterを始めたいと私に言ったなら様々な要因から確実に止めに入るでしょう。
Twitterは恐ろしく危なく、3歩歩けば毒沼のダンジョンです。
しかしそんなことは私が小学生時代にアメブロがしたいと大人にごねたのと同じで、年頃の青少年からすれば口うるさくてめんどくさい存在でしかないでしょう。
端的に言えば、Twitterに未練を作ってはいけないから始めてほしくないという一つに収束していくのですが。

しかしながらそれとはまあ関係なしに、現実で成功していくやつというのはいつの間にかインターネットから離れていきます。
それは現実の忙しさだったり、コンプライアンスの順守だったり…そうして広報という意味合い以外のインターネットを自分から手放していくのです。
インターネットでしか知り合いのいない私なんかよりずっと健全な離陸でしょう。
どうせ人間は現実でしか生きることはない、SNSは所詮ごっこ遊び。

私という人間は大学生活が再開してもまだリモートのままで、話す相手は職場以外には身内と液晶画面以外に無く。
4年間の大学生活の半分は電波を介したようなもので、都心のキャンパスに行く面倒さを誰かが歪んだ猿の手で吹き飛ばしたようにただ変わらない学費の金額をにらみつける他に鬱憤を晴らす当てもなく。
自宅で模範的に過ごしながら、一方的に仲がいいと思っていた人たちの輝かしい告知の数々に絵文字で拍手を送るほかに生きている気持ちなど無く、それはもはやインターネットへの依存でした。
私だけは網状の文字の中で環境由来の言い訳を添付しながら、数多とあなたと同じ光へは届かない。

インスタ映えというのは揶揄されがちだけれど結局は究極的に健全で、要は自分をキラキラに見せるための努力と探求をたゆまないという話になるのだけれど、Twitterはその特徴として実力のないものは狂った底辺ムーブしか認知を集めることはない。
怒りと哀れみと指示厨を集めることは無からのエネルギーの収集には効率的な話で、もし承認欲求に墜ちるならいずれかの欲求を満たすにはインスタントな手掛かりになり得るのでしょう。
ああ、そういうわざと弱みをさらけ出す共感の形こそが崩れた自分の最後の救いになるのか、なってしまうのか。
これも出来ない、あれも出来ない、できれば君に助けてほしい、ちょっとのことで話をきいてほしい、私ってすごく寂しくて失望されがちな一人ぼっちのどうしようもないやつだから。
そんな…本当に私にはそんな人と同類にならなければ、誰からも見向きもされなくなってしまうのか。

世間はその怪物の正体をメンヘラと呼称しますが、私は自分がそんな今までさんざんばら私を食い物にしてきたものとは分類を同じにしたくはないのです。
例えば年老いたうるさい老人が最終的な説得の手段に自分の寿命を持ち出して反論すらも許さなくなってしまうような、ノーガードのように見せかけた完全な否定の形をメインウェポンにしてしまえば本当に現実で生きていくことは不可能になってしまう気がするのです。
理論とリプライ欄で武装して、戦うわけでもなくその言葉で行えることはただ殻に籠るための言い訳のミルフィーユになっていく。
私はただでさえ他人への依存を恐れているのですが、インターネットへの依存を問われたときにいやそんなことはないよと茶化せるようなフラットさはもはや持ち合わせていないような気がしています。
そしてこの歪んだ耳目に依存した猫背を直す特効薬は、結局自分の成功体験と実力の会得には変わりなく。

何か対外的なトレンドに物申すことでしか自分を表現できなくなった時、それはもう私が私である必要性を失っていると思います。
誰かと同じ気持ちになることで、仮設の脆い仲間を得てスイミーの中の一人になって、自分に大きな力があると思い込むようなインターネットでしか生きられないゾンビに私はなってしまって、こんな文章がいつか「かゆうま」と笑われるようなそんな生き恥しかパフォーマンスできなくなってしまうなら、ひどく無様であると私は感じます。
常に何かを作りつづけて私が私である意味を稼がなければ、いつかはみんなみたいに現実と共に踊らなければ、大きな鯨の民意になってしまわないように今溺れかけているところです。
美しい皆さんと同じ舞台に上がれるまで、私はあと何年ピエロをやり続けるんでしょうか。
いつか盛大な告知のツイートと共に現実で笑える、そんな日を見つけなければいけないって心の底から思って現実で誰にも打ち明けないまま資格の勉強を続けています。




それではおやすみなさい。